記憶に残る言葉、大事にしている言葉、心の支えになってくれた言葉……
言葉に救われることは、ときに、たしかに、あると思う。
でもそれは、その人自身が、自分に必要な言葉を見つけ、それに耳をすませたからではないだろうか。
何もとくべつではなく、なんてことない平凡な言葉が、受け取る人の中で、大事な言葉に変わるんだと思う。
これまでぼくの心を支えてくれた言葉をめぐる経験をつづった新刊エッセイ集『希望はいつも当たり前の言葉で語られる』(草思社)が、6月下旬に発売されます。
〈出版記念イベント〉
この本はもともと、琉球新報での連載エッセイ「落ち穂」をきっかけとして生まれました。沖縄タイムスでの連載エッセイからも1篇(沖縄に移り住んだ最初の出来事を)収録しています。
願わくは、沖縄の読者の方々にも、お手にとってご覧いただけたらと。そして本を通じて何らかのものを差し出せることができたならと。
この数年、県立芸大の芸術学専攻の学生と、毎年1月の数週間、詩の実技研究をともにする中で、いまの若い人たちの姿を間近にしてきました。希望を見出しづらい時代に、それでも何か書き残せないだろうか、届けられないだろうか、という思いが出発点にありました。
いまの時代の希望と言葉について何か話をできたらと思います。
7/21(日)16時〜 ジュンク堂書店 那覇店 B1Fにて
吉祥寺のブックス・ルーエさんで、刊行記念の選書フェアを開催中です。この本を書く上で大切な位置を占める本を20冊選書いたしました。ルーエの書店員、花本武さんが、それぞれの本のコメントや小文をのせたフリーペーパーを作って店頭で配布しています(それぞれの本への手書きポップも!)。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
装画を手がけてくださったカシワイさんをゲストに、シーモアグラスさんという温かな場で、キャンドルを灯しながら、皆様とごいっしょに、ゆっくりと言葉を交わせる時間になれば、と願っています。
出演 白井明大 カシワイ
6/23(日)19時30分開場/20時開演
会場 原宿 SeeMoreGlass
料金 ¥1,500+1ドリンクオーダー
お問い合わせ・お申し込みこちらのメールアドレスあてにお願いします。
おかげさまで満席となりました。
翌日6/24(月)18-20時にお店で売り子をしております。
よろしければ、どうぞ遊びにいらしてください。
6/22(土)夏至の日に、evam eva yamanashiにて、お話会|音楽会に出演いたします。演奏は、弦楽演奏ユニット・strings umさんです。
6/22(土)第一回 14:00-16:00 第二回 17:00-19:00
〈内容紹介〉
「季節の名前を呼ぶこと」と題して、夏至にまつわること、日々の暮らしのなかで季節を感じること、そして、移ろう月日を言葉で呼び指すことの意味……などについて話をできたら、と思っています。
evam eva yamanashiさんでお話させていただくのは、これで2回目ですが、前回に訪れたのは早春でした。山並みにかかる夕日のあからんだ光がきれいで、静かに眺めていました。今回は夏至なので、またちがった表情を見せてくれると思います。
形というギャラリーは、静けさと広がりをたたえた気持ちのいい空間です。きっと弦の音色もうっとりと響くのではないでしょうか。
夏至の週末、ぜひお運びください。
くわしくはこちらに→evam eva yamanashi ホームページ
『現代詩手帖』3月号で詩誌月評を担当しています。「みらいらん」「て、わたし」「空の広場」「極微」「十字路」「雛罌粟」「孔雀船」「Eumenides III」「ミて」を紹介しています。
今回、海外詩を翻訳・紹介する詩誌が目立って印象的で、数篇を引用しました。
震災から八年が経とうとしていますが、福島、宮城など東北の地を背景に持つ詩にしぜんと惹きつけられ、それらの詩についてふれています。
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同号の特集「これから読む辻征夫」では「私と辻征夫」というアンケートに小文を寄せています。矢野顕子好きとしては、やっぱりこれかなぁ、と。
これからゆっくり、いろんな詩人たちが語る辻征夫とその詩について読もうと思います。ああ、そうそう。この詩もいいなあ。なんて、にまにましながら。
『現代詩手帖』2月号で詩誌月評を担当しています。
「Zéro」「二人」「左庭」「KANA」「万河・Banga」「漪」「てつき」「Down Beat」を紹介しています。
今号では「他者の痛みを知る術は」という題を月評に付しました。今回、一篇一篇の詩と出会っていったとき、広島、東北、沖縄、在日ということを書いた詩が多くあり、ああ、そうか、他者の痛みと向き合う詩、というものを自分は読んでいたのかと、そのような読みの軸にふれていたことに気づかされました。
◯◯◯に政治を持ち出すな、という言い方をしばしば見かけますが、多勢に無勢の状況があるとき、その問題に関与しないという選択じたいが多勢に加担することにつながる場合もありえます。
現代詩の分野において、けっして他者の痛みに無関心でいるわけではない、という詩の姿が誌面で公になることの意味もあるのではないかと思っています。