12月

2025.12.26金

欲しいもの

ほんとうに欲しいものを選ぶ。それだけのことだから、むつかしくはないはず。だとしても時折ほんとうに欲しいわけではないものも買ってしまう。口さみしさに、それほど食べたいわけではないときでも、甘いものをつまむことがあるみたいに。

ほんとうに欲しかったものなのに、いざ手に入れてみると、それほど出番がないということもしばしばある。出番は少なくても、手許にあるんだと思うだけで心温められることも大いにある。

今年買ったもので、よかったのは何だろう、などと考える時間ほどのんきで他愛もなく、ある意味平和な時間もないのかもしれない。『石井桃子集』を古書で求めたのは今年よかった買い物のひとつかもしれない。買ったら満足して、まだ頁をほとんどめくっていないのだけれど。

他愛もないことを考えているとき、頭のどこかでは、ほんとうはべつのことに思いを巡らせているような、そんな感覚にこの年末なっていた。物語のつづきのことを、いつも頭の片隅で意識しているような感覚。自分からすれば理解できないような、でも現実に起こっていること。どうすればいいのだろう、と意識的に考えたところで答えが見つからないことが最初からわかっているような気がして、直接それについて考える代わりに何かべつの関心事について考えるふりをしているとでもいうか。

いまいちばん心のまんなかにあるのは、物語のつづきと、世界のこれから歩みうる道のことで、そんなの中学生の頃にいちばん考えていたようなことみたいだけれど、でもやっぱりそれが心のまんなかにある。胸にずっとつっかえている、と言ったほうがいいのかもしれない。なんとなく、つい、つい考えてしまうことのほうに歩いていってみると、いい気がする。わけもなく、心の向くままに、天気のいい日にふと散歩に出かけたくなるような心の軽やかさで。

2025.12.2火

言葉を探す旅

ふり返ると今年、オンラインの詩のワークショップを6回、対面でのワークショップを2回行なってきて、ぜんぶの日程が済んでほっとしている。とくに4月から隔月ですると決めたはいいものの、ほんとうに自分がそんなペースでできるのか甚だ心許なく、結局は8月の回が9月にまたがり、なら次は11月に、というふうにずれ込んだりしつつの開催だった。定期的なものとしては2018年の沖縄・那覇や首里でコンスタントに開催するようになったから、長い参加者はもう7年にもなる。

思えば遠くに、というわけでもなくて、淡々といつもどおりよんなーよんなーな会かもしれない。

わからない

わからないな、と思うことが増えた気がする。
なんというか、根本的なところでの理解力の欠如というのか、これはどんなに考えてもちょっといまのままじゃ、さらに先まで理解することはできないのだろうな、と限界のようなものを感じる。
人の心の奥、感情の動きでもあり、機微でもあり、ときに闇でもあり、他人の心のそうしたことに自分はどれだけ理解を届かせることができるだろう、と考えるまでもなく限界があり、それだけでなく、ぼくの思考の貧しさや至らなさ、死角になっているところなどがありなおのこと、わからなさが募って、積み上がって、ある線を境に、まったくわかってない位置に立っていることになる。

なるべく本を読むことにした。自分で選ぶ本だけでなく、なんとなく目にとまった本とか、なんとなくこの本は家に連れて帰ったほうがいいんだろうなと感じた本とか、そういう視界の外からふっと入ってきたものをこそ、意識して読まないと、いつまでも線の前に立ちっぱなしになりそうで。

遅々としてなかなか読み進められないのだけれど、頁を繰る。たぶんいまそれをいちばん必要としている。

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11月

2025.11.17月

江代充さん

今年いちばん大きかった詩のできごとの一つは、江代充さんのご逝去で、ふり返ったときに真っ先に思い浮かぶ。教会でご葬儀ミサが春にあった。よく晴れた日だった。詩人の最期とは、こんなにもその人の姿そのものになるのかと、江代さんを包む場の清廉さや、集う方々の心がありありと分かち合われる温かさ、ご自身準備なされていたことがうかがわれる死との向き合われ方、あらためて江代さんの詩が手許にあり、読めるその詩、そうしたすべてに心うたれる思いがいまも続いている。

江代さんの詩のことを書いた。ワークショップのまとめの詩誌『言葉を探す旅 Soil』に。一篇の詩のことを。
詩をこれからも読むことができ、江代さんの詩がずっとここにあるということが、どういうことなのか、いま感じている。詩人というのは死を以て別れながらも、それでもなお別れることがないと感じられるほどに、江代さんの詩が江代さんであると感じながら、やはりその人とその人の詩とはこんなにも重なっているのだ。

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