今年は、この無名小説というホームページを開設して丸十年という年でした。2002年1月20日から21日にかけて、当時横浜の実家に暮らしていましたから、その実家で深夜、初めてのアップ作業をしました。
その年の6月に神楽坂に事務所(兼自宅)を出し、2004年に千駄ヶ谷へ、2009年に吉祥寺へ引っ越し、2011年に沖縄の首里に移り住んで、いまに至ります。
じぶんが詩を書くきっかけになったのも、このホームページでした。毎晩の更新が楽しく、深夜二時、三時まで仕事をした後、四時すぎまで詩を書いてはアップしていました。その頃は、友人ばかりが読者で、見たよ、という声が嬉しく、遊んでいました。
それが翌年2003年に「詩学」という雑誌の存在を知り、春のデザインフェスタへの出展の後、詩学のワークショップに参加するようになりました。さらに一年後、初めての詩集『心を縫う』を詩学社から出し、不思議な道行きになっていきました。コピーライターの仕事をはじめたのが1997年9月でしたが、それから4年と数か月後に詩を定期的に書きはじめ、およそ7年後に処女詩集を出した、ということになります。そんなことに何の意味があるのか分かりませんが、事の時間の流れとして。
以来、2007年に第二詩集『くさまくら』(花神社)を、2010年に第三詩集『歌』(思潮社)を出し、今年、第四詩集『島ぬ恋』(私家版)を上梓しました。
第三詩集までをひとつのまとまりとして、私的な生活を主立ったモチーフとして書き継いだものと捉えたとき、『島ぬ恋』はそれとは異なった、抽象的な詩のまとまりとしてできあがった詩集だと言えるでしょうか。今後どうなるかは分かりませんが、場合によっては、新しい展開の端緒となっていくのかも知れません。但、『島ぬ恋』の冒頭の詩、表題作となる「島ぬ恋」は2003年の春に書いたものです。なので、必ずしも、第三詩集以後の詩の作風とも言えず、あくまで、違った捉え方、異なる出どころから、詩が生まれ、詩集としてまとまった、という感覚です。何よりも、佐久間たちの死を抜きに、この詩集の詩はありません。「島ぬ恋」以外の詩は、すべて、あの二人の死と向き合うなかで、他に選びようもなく抜き差しならないなかで、書いてきたものです。そういう意味では、二度とない詩ばかりがここにあるのだと思います。そこに古い詩を一篇入れ、なおかつ詩集の題にしたのは、そこに、そうするように、待っていた席につくかのように、詩がすっぽりとその場に収まったからです。沖縄をテーマにしたのではなく、死が目の前にあり、その死と向き合う地が、善福寺であったり、鴨居であったり、沖縄であったりした、ということです。
彼らの三回忌が、今年の四月と、十月とにありました。
旧作を形にしたという意味では、今年の6月に出したインディーズ童話集「カワウソのお茶」(しろくろこぐま座)も、収録した三篇すべて2003年に書いたものです。そういう意味では、棚卸しというか、いや、蔵出しか、そのような年でもありました。
おかげさまで今春刊行した『日本の七十二候を楽しむ -旧暦のある暮らし-』(東邦出版)がたくさんの読者のかたがたに恵まれたことは、望外の幸運でした。予期せぬことがいくつも舞い込み、感謝は尽きません。どうもありがとうございます。
来年は、できるだけ仕事を、すべきことに絞って集中して、ゆっくりと、ゆっくりと、時間をかけて、全力で書こうと思っています。とはいえ、執筆以外の、おそらく来年すべきであろうこともいくつかあり、エネルギーを集中させていきながらも、書くこと以外にも意を注ぐことがあります。
すっかり不定期更新が板についたこのホムペを見に来てくれて、ありがとう。
いよいよ大晦日となりましたが、どうぞ皆様よいお年をお迎えください。
このところ、上京したり、また沖縄に帰ってきたり、とバタバタでしたがようやく島に落ち着きました。
少しだけ今年をふり返ると、そういえば買い物を最初と最後に、結構したなぁという年でした。
いま使っているこのMacBook Airは、1月にそれまで使っていたAirがクラッシュしてしまったため、買い替えたもの。あのときは悲しかった。。ハードディスクがご臨終というのは初めての経験でした。今年はそうしたIT系のトラブルに見舞われることが多く、携帯の充電器の差し込み口が折れてしまい、新しいものに買い替えたのも束の間、2年縛りの契約が途切れるタイミングで、docomoをやめて、沖縄セルラー(au)にしたんでした。
そこで、iPhone5を導入。使ってみると、やはり上京中などとても便利です。仕事に有用なものとなっています。
そして自転車。4月の終わりだったか、5月の初めだったか、サイクリング車をようやく手に入れて、島の移動が楽になったのはたすかることでした。それまでは徒歩かバス。これはかなり、島の暑い夏には厳しかったです。
それと今月、それまで色々な人に「もうちょっとどうにかしろ」と言われてきた、服装問題についに着手。新しい服を買いました。去年のサトウキビジーンズ以来の大物な気がします。たるん、とした着心地が好きなmon sakataというお店で、ズボンとシャツを買いました。これは高かった・・。先だってのFujiyama Factoryのシャツと合わせると、今年はまずまず、引き出しの中が充実したと言えるのではないでしょうか。このズボンを買うまで、サトウキビジーンズor破れたのを繕ったジーンズで過ごしてきていますから、見た目にだいぶ気をつかえるようになりそうです。
大きな買い物はこれくらい、かな。あとは物ではないですが、夏の東北旅行は長旅でした。見ておくべきもの、知って、触れて、感じておくべきものごとに、出会えた旅でした。東北が縄文時代に、一大先進都市だったであろうことを目の当たりにしたのは、この島国の歴史認識が、ガラッと根底から変わるほどのことでした。
はや師走。時が経つのは早いものですが、今年の初めころなんて、はるか遠くの昔にも思えてきます。いろいろあったなぁ。
今年はほんとうに予想もしないことが起きました。はぁ。。びっくり。。
いまもまだ渦中にあるようです。まだあと少しはたぶん。
最近、柳田國男を読んでいます。とてもとても奥が深いです。旧暦の本一冊ぶん書くためにいろいろ勉強したいまだから分かること、読み飛ばさずにその一行、その一節に何が書かれてあるか、その意味の片鱗が分かるような、そんなぐさぐさとつきささる読書体験になっています。二年前には、ここまで読めなかっただろうな、間違いなく。
沖縄へ帰って、体調を崩していましたがそこからも復調したので、仕事を進めていきます。本を書く仕事をいただくことができたので、またしばらくは執筆中心の幸せな時間にこもることができそうです。もちろん展覧会の準備や、今月半ばに上京して旧暦のお話や詩の朗読会もあるので、そうした楽しみもまた大切にしながら。
東京から帰ってきました。
NHKカルチャーでの旧暦のおはなしに始まり、ななこさんと島田さんとのライブで締めくくった旅でした。茜夜さんでのリーディングもアットホームな雰囲気で楽しく、羽田野さんのルリユールのサロンを訪れたり、来年大阪での展覧会の話や、そして次の本づくりの打ち合わせがありました。
二月空さんの事務所で集まれたことも楽しく、白井はほとんどへたって寝てた(よそさまんちで・・う。)のですが、かうちさんの誕生日を祝ったり、白井の本のお祝いまでしてもらえて幸せな夜でした。
まだ体が本調子ではありませんが、徐々に戻していきつつ、新しい仕事に取り掛かります!乞うご期待。
夕方近くまでかけて、一通り丁合、糸綴じ、帯掛けが済んだ。その後、直しが上がったとの連絡を受け、桜坂のFUJISAN FACTORYへシャツを受け取りに。袖丈が直ってぴったり合う。手仕事のていねいさや、服への思いを感じ、ものづくりの人たちのまばゆい姿をここでも感じる。
そして玩具ロードワークスさんへ。来年の旧暦展のことで相談に伺う。対応していただき、申し訳なく、またありがたかった。
お言葉に甘え、工房を拝見した。こうして作っていたんだ……と、作り手の仕事を拝見するときは、いつも目を見張ってしまう瞬間ばかりが連続して訪れる。繊細さと、手の仕事を幾度もくり返している動きと。
帰りしなにアシスタントの山下さんに、田舎のおばあちゃんの柿をいただいた。大きい。つやつや・ほとん、としてる。いただきます。
夜は沖縄大学のミニシアターへ。「バスク・琉球「言霊の響宴」」というシンポジウムがあった。スペインとフランスの境に位置するバスク地方。そこではスペイン語と異なる、バスク語を話し、書き、人は暮している。そのバスク語は、ラテン語以上に古い歴史を持つが、20世紀のフランコの独裁政権時代には弾圧を受けている。古来、国の政権に保護されたことはなく、教養ある言語としてはスペイン語(カスティーリャ語)が重用されるなか、バスク語は漁師のことば、農民のことばとして低い扱いを受けていたという。20世紀に入り、弾圧の影響が大きく、若い世代がバスク語を話せなくなっている状況に、バスク地方の人々は共通バスク語をまとめ、未来に残そうと努力する。その結果、60年代から今日までに15万人のバスク語使用者の増加があったそうだ。
バスクの詩人であり作家であるキルメン・ウリベさんが詩の朗読をし、バスク語への思いを語った。ウチナーグチもまた、将来が不安視されており、バスク・琉球と題したシンポジウムの主眼の一つには、島の言語を守ろうという願いが込められているのをひしと感じた。
バスク語とウチナーグチ。その言葉を話したい、という人の心が大事ですと話すウリベさんの真剣な語りが心に残る。そして宮古島の詩人、川満信一さんの詩や話もよかった。
ひたすら丁合をしていた。カレンダーの丁合。七十二候だから、72枚ある。プラス表紙と奥付で74枚。短冊を1枚拾っては手にとり、また1枚拾ってはさっきのに重ねる。それをひたすらくり返す。
40セットだか50セットだか作って、頭がモーローとした。肩も腰も凝っていたけれど、それ以上にあたまが・・。
でもこんなんできるとうれしい。
一枚一枚の紙にふれていると、紙が愛おしくなる。
冬のわらじづくりのように、一枚一枚編むように束ねて綴じて、できあがる。
こんなの↓ 3月初めの季節、啓蟄 次候 桃始めて笑う。好きな季節。
「スケッチ・オブ・ミャーク」を観た。宮古島の人、その歌、生きぶりがありありと映っていた。観終えて映画館を出ると、桜坂の界隈、那覇の街がぜんぜん別物に見えた。いつもと変わって見えた。生き生きとした街に。じぶんの見る目のほうが、変わった。変わっていた。
☆映画が始まる前、少し時間があったので、桜坂にある服屋さんを覗いてみた。手前がお店、奥がアトリエで何人かの人が服を縫ってるよう。男物のシャツはどれも変わっていて、パッチワークが施されていたり、襟が不思議なふうに折り返されていたり。ショーケースに飾られていたチェックのポケットが複雑にくっついてるシャツが気になり、羽織ってみた。ちょっとぶかぶか。直してくれると言うのでお願いしてそれにする。明後日にはできあがるという。楽しみ。
☆坂を下りたところには琉球張り子屋さんも。映画の後でちょっと覗いたら混んでいたのでまたにする。路地から辻へ出たところ、坂のふもとの向かいの建物の上半分に西日が当たる。KOKUSAIDOとかすれた文字が壁に書いてある。国際通りかなと思ったら違って、国際堂というお店。坂を上り、劇場のほうへ戻っていきながら、日の当たる場所場所を見ていくごとにさっきまでとは違って映る。
さっきまでは街だった。いまは土地に見える。島に見える。島の暮らしに見える。島に根づいて生きる人の姿、人の生活に見える。さっきまでは観光で訪れては去ることになじんだ一過性の通りに見えた。いまは、生きることに結び付いた時間と場所に、容易に流れない、流されない人の存在を感じる。
今日は立冬 山茶始めて開く(つばきはじめてひらく)。山茶というのは、ツバキ科のサザンカのこと。立春も立夏も立秋も、え、まだ早くない?という頃に訪れる。「立」って、ここからゼロスタートな感じがする。新月のように、まだゼロ。やがて冬が満ちてくる。
詩の話を少し。
蛸壺の底抜け
詩と読者が幸福に結びついていることの背後には、どんな社会状況があるだろう。ペドロ・シモセ詩集『ぼくは書きたいのに、出てくるのは泡ばかり』(細野豊訳 現代企画室)をすこしすこし読みながらそんなことを考える。軍政への批判、亡命先で母国語を抱えて詩を書くこと、詩集のタイトルにあるように(民衆のために)詩を書くこと。
それは、韓国でもあったことだと、申庚林さんの仕事に教わった。また、デルフィックに参加した際、各国の詩人の詩にふれてやはりそう感じた。
日本の状況は、だがそれらとは異なる。
言葉からもマジョリティからも、それゆえ手厚い保護からも引き剥がされ、孤立した者へこそ、詩はひかりをあてる。その孤立から魂を救う。では孤立した者とは、軍政下では民衆がそう。では孤立した者とは、いまの日本では誰だろう。
いまの日本で孤立しているのは、若者だ。そしてほとんどすべての生活者だ。それは軍政下における、〈民衆と軍事政権〉という構図と重なるのだろうか。いや、重ならない。高度な情報化が進むこの国で、民衆は分かたれ、互いにつながりを持たない。蛸壺という比喩を持ち出してもいい。民衆は一人ずつ蛸壺に入れられ、他の蛸壺を覗き見ることはできない。互いに通じ合う術を持たない。若者は、生活者は、民衆になることができず、一人ぼっちのままを強いられる。
民衆のぼっち化が完了した状況が、いま日本にある。誰もが、ぼっちだ。そのぼっちである状況を言い指しているのがいまの日本の詩であると説明することは可能だろうと思う。蛸壺の中で生まれる声が、そのまま個々の詩になっている。蛸壺の詩だ。他の人には分からない。おのずと発生し、その蛸壺の中だけで通じる言葉で書かれ、あるいは発声され、効能としては蛸壺の中の自分を救うことに留まるか、まれに他の蛸壺にも届くことがある。かつての民衆は、大きな蛸壺にどさっとみんなが押し込められていた。だから、一人が詩を生めば、蛸壺の中にいる誰かに届いた。いまやぼっちの蛸壺では、そんなことは稀にしか起こらない。
「ガーネット」vol.68の詩誌時評で廿楽順治が言う。「今回の大震災に対して、詩は役に立つとか立たないとか、そういう議論もあったようだが、その考え方は主に詩を他者へ働きかけるメディアとして捉えている。一方で、自分のために書く、という考え方はある。これは他人には全く役に立たないが、自分が生きていくためには役に立つ。逃避だろうと何だろうと、今ここにあることの苦しさ・理不尽さを多少なりとも快楽にすり替えてくれる、という効用はある。」
そしてその文脈の結論をこう付けている。「詩の残酷さは遊びの楽しさと裏腹である。読者は結局無責任な野次馬のようなものなので、この残酷さに釣られて集まってくる、という面もある。自分にしか役に立たない詩が、この残酷さで読み手と接続されるのである。」
「今ここにあることの苦しさ・理不尽さ」を他人と共有できないことにかけては、いまの日本は地球の歴史上かなり上位にあるのではないだろうか。連帯することがほとんど困難ではないかと思う。連帯という語が、死語に近い感覚を覚える言葉であることからも、その困難を想像する。おそらく、苦しさが共有される時代や国にあっては、詩の読者は無責任な野次馬である面を一方に持ちながら、と同時にもう一方では切実な渇望者である面を持つのだ。連帯より孤立化が進んだ社会では、他者の言葉に自分が救われる可能性はどんどん低まっていく。自分が生きていくために生まれた詩が、しぜんと他者へも働きかけていた、といったことにはなりにくくなっていく。確かに日本でもかつてはそうだったろう。それを覚えている者が、詩は役に立つとか立たないとか、そういう議論を持ってくるのかも知れない。けれどいまは違う。それをいま求めると、廿楽が言うように、詩はメディアとして捉えられるだけの矮小なものになってしまう。
詩と読者が幸福に結びついていることの背後にあるのは、そういうことだ。翻って、詩と読者が結びつきを失いつつある時代というのは、こういうことだ。
詩はいま、たった一人で蛸壺にいる個人から生まれ、その個人の手もとで消失していく、マッチ売りの少女のマッチのような存在だ。それを蛸壺の外から、もっと言えば、蛸壺の上から、文字通り上から目線で批判すること(役に立つ/立たないと議論すること)は、苦しさや理不尽さにさらされている最も詩を必要とする者を殺すこととほとんどイコールだろう。そのマッチで見る夢は幻だ、愚かな行為はマッチの無駄だからやめろ、と言えば少女の魂は救われることなく息を絶やすだろう。それと同じことだ。
では、つかのまの幻を見るためだけに灯され、はかなく消えたマッチの燃えかすをどうするのか、どうそれと向き合うのか、あるいはいかにそのマッチを灯すのか、さらにあるいは、自分はそうしたマッチを灯したいのか、それとも違うものを求めるのか。いま日本の現代詩へ向けられた問いとは、そういう性格の問いだ。
蛸壺という分断はいまも進行している。すると言葉はもっともっと、蛸壺の中だけに押し込められる・・・
というのは本当だろうか? はたして言葉も蛸壺の中に留められてしまうものなのか? そうじゃない!と声高に叫べばメディア化してしまう。どこに道がひらけてくるだろう。それがいま僕が抱えている問いだ。
打って変わって、沖縄では時間がゆっっくりと流れる。
今日は、歌こころカレンダーの丁合をせっせとしていた。七十二候だから、72枚の短冊(+表紙と奥付)=74枚の短冊を順番に束ねていく。これを十も二十も作っていく。もくもく。もくもく、もくもく。あっという間におなかがすいて、昼が来て、昼ごはんを食べたらまた、もくもく、もくもく。でも黙って手を動かすのは、いい。心が整理されていく。簡素になっていく。ぐじゃぐじゃにかきまぜられた心が濁りを解いていき、やがて沈殿するべきは沈殿して、澄むべきは澄んでくる。
すこし思う。今年何が起こったんだろうと。予想もしないことが起こって、自分の身をあれよあれよという間に流れに乗せ、遠く遠くまで、向こうの向こうまで、まったく思いもよらなかった場所まで運んでいった。あれ、ここはどこだ? という具合に、いまいるところというのは(あくまで主観的な感覚の話)思いがけず辿り着いた、不思議な峰のようなところだ。
ああ、そうだったのか、そうなっていたのか、と知ること、体感することがまた多くある。出版の世界のこと。なんというか、ある法則というか、ある文化というか、そうした何かを基に動いているのをひしひしと感じる。
では、自分は幾許かでも変わったのだろうか。
変わった部分はある、そういうことを感じもしている。書き手としての感覚が、ということなんだと思う。今まで通り、ということは、ない。それはもう、きっとない。でもまだ上手く言葉にできない。
詩はどうなんだろう。詩のことは。
今年は一篇も詩を発表してない、と3日の朝、ふと思って口にした。藤井さんと電車に乗っていて、そう話した。いい詩を書かなくてはと思う。でも、ああそういえばと、今夜風呂に入っていて思い出していた。今年は詩集を出していたんだ。あれはほとんどが未発表だから、ずいぶんと詩を発表しているじゃないかと気がついた。『島ぬ恋』が、それほど昔に、たった半年前のことなのにもう結構前のように感じていた。そして、他方では確かに、その言葉も間違ってはいない。詩集に収めた詩は去年までに書いたもので、今年書いた詩じゃない。今年書いた詩は、どれも皆発表してない。サルビアのメールマガジンの詩は別として、それ以外はノートに、パソコンに、しまわれたままになっている。そのことを思って言ったんだ、多分。
ずっと考え、分からずにいる通り、いまは自分の書いたその詩の、あるいはこれから書こうともがいている詩の、何をどう発表していいのかと立ち止まっている。確信できるものが、自分の中に見当たらない。
石原吉郎『望郷と海』を思う。沈黙について、被害者の位置に立たないことについて。
貘さんの詩のことを考える。
自分がこのところ書いた詩について、思い返す。どうだろうか、どうだろうか、と。
この島では時間はたっぷりある。ほとんど無限にある。無限の時間の上を雲が流れ、無限の空間の向こうへ波が流れている。この島は、いつまでだって待ってくれる。好きなだけ見つめていろと。
守られている。きっとそうなんだ。そして守られている時間のゆるやかさの中で、好きなだけ時間をかけて、どこかへ辿り着くんだ。
今回の上京は短かったけれども、濃密な時間だった。駆け足で備忘録的に書いておく。
1日の昼に成田に着き、浅草橋のシモジマで少し買い物をしてから神保町へ向かった。平安工房のスキマイチに行くと、モノたちが素敵にひしめいていた。夕方からルフトカッツェさんの活版ワークショップがあり、お名前は存じていたけれど、平川さんに初めてごあいさつする。アダナで刷っているところを見るのも初めて。いろいろな思いがよぎった。夜は飯田橋の茜夜で美篶堂の明子さんと呑む。その日は後楽園に宿をとっていて近場で泊まれて、体的に楽だった。
2日は午前中、嘉瑞工房へ行って、来年1月の旧暦展のDM印刷をお願いした。その他もろもろ、活版の話をたくさん伺うことができてしあわせな時間だった。
午後、神楽坂まで歩いていき、貞さん、jocogumoさんへ。懐かしいサンライズ神楽坂(貞の前の建物。ここに住んでた)を前にして、貞で話をする楽しみよ。jocogumoさんの店の佇まいは心地よくて、ずうっといられそう。壁に、歌こころカレンダーをかけてくださっていて、それがすうっと合うのがまたうれしく。
そこから神保町へ行き、絵本の専門店にこころうばわれつつ、夜は平安工房で、旧暦のある暮らしのおはなし会をする。趣味に走って、あれこれの詩の話をできて、それを参加者のみなさんが聞いてくれて、感想とか言い合ったり、みんなでかわるがわるリーディングしたり。あったかい時間だった。平安工房の雰囲気があったかいから、ワークショップってそういうのにすごい温められる。打ち上げは萩原修さんと因さんと焼き鳥屋へ。で、終電を逃し西荻へ移動し、2時ころまで三人で話した。そして解散後まんきつに泊まるという。。うう。泣。頭文字Dの神奈川遠征篇に胸熱。
3日は寝不足、ひげ、着たきりすずめで朝、藤井さんと少しお茶。電車でいっしょに新宿へ行くと、上着をまんきつに置き忘れたのを思い出す。尾関忍さんにごあいさつだけして、西荻へ戻り、また新宿へ行き、明治神宮の西参道でななこさんと待ち合わせ。お昼のぽかぽかした陽気の中、リーディングの練習をした。まわりでは日本刀の演舞をしていた。
夜は平安工房へ少し立ち寄り、清水さんのカッティングボードをゲット。それから護国寺の光文社さんへ行って、ジョセイジシンノシュザイヲウケテキマシタ。そんなことが人生にあるなんて、不思議。
1日〜4日まで上京していた。
昨日の夕方戻り、那覇空港の機内から一歩外に出ると、ほ。雨だったけど、あったかい。あったかい雨。十一月の島。
空気がまた変わっていく前に、もう少しだけ前回上京していたときのことを。
10月4日に上京したのは、6日に、さくまの奥さん、ゆかさんの三回忌をしのぶ集まりが東京であったから。命日は4日。あれから2年が経つ。ほんの2年とひと月前には、ゆかさんはいて、さくまの個展を西荻で開催したんだった。なにも言葉が出てこない、そんなできごとだった。半年の間に、いまいない二人がいなくなった。
すどう、丸本、ふじい、しばた、栗本さんご夫妻、会社帰りの山田が途中から、さらに後から桑原が広島出張から駆けつけた。犀門で飲んで、ライオンで二次会をした。花をおくろう、と春新潟へ行ったときから山田が言っていた。やつが手配して、命日に新潟へ送った。ゆかさんのご両親もいらっしゃると伺ってのことで、あそこならと、二人の写真のかたわらに供えて頂けたらと。
わいわいと飲んで、わいわいと飲んでなお、こうして集まっている顔ぶれを前にしていることの意味を、底のほうで感じているような、そうした会だった。
7日は西荻へ。葉月ホールハウスへほんとうにひさしぶりに行った。卒業した小学校を訪ねるような、不思議な不思議な懐かしさに満ちていた。善福寺公園のわきをめぐり歩いていく懐かしさもまた、体に伝わってきた。岩河さんがお元気そうでなによりだった。斎藤槙さんの個展。赤ちゃんのあとを歩いてくる動物たちの絵や、日に月、山、人が縦に並んだ布の絵が印象にいまもある。
夜は祐天寺で義父と義弟と飲んだ。焼き鳥屋さん。ほどよく呑み、話し、9時すぎころまで。
8日は昼、ななこさんと新宿でランチした。11月にすることになったリーディングライブの打ち合わせ。いろんな音楽の話を聴けて、楽しく、不思議な広がり。夜はむとうと飲んだ。出版を祝ってくれて、素直にうれしかった。こっちが吉祥寺を離れたとたんに、吉祥寺に越してきたのは奇縁で、そのあたりで飲もうと西荻で待ち合わせて、おでん屋へ。二つ大事なアドバイスをされた。二つとも、これからやっていく上で、忘れない言葉になりそう。
11日はTBSラジオの番組収録におじゃました。ロザンさんの番組で、GAKU SHOCKという受験生向けの深夜ラジオ。七十二候の本の話をした。かぜで少しポウッとしつつ、せきだけしないように気をつけていた。帰りにディレクターさんにタクシー券を渡され、案内されるまま局の入り口で停まったタクシーに乗り込み、横浜の実家まで楽に帰れたのが助かった。体力的にそうとう楽で、ほっとした。
今月上京のときのこと。つづき。
18日にNHKカルチャー千葉教室で、旧暦の講座の第一回をした。カルチャーセンターで話すのは初めてのことだった。自然を受容するところから言葉が生まれてくる、という話は抽象的ではあるけれど、日本の季節観にとって大事なように思え、そうした話を織り交ぜつつ、二夜の月や重陽の節句など今の時期の話を中心にした。帰りの電車ではさすがに、かぜからの回復途中なこともあり、くたっとしてしまったが、お話をしに行った帰り道というのは不思議な宙ぶらりんな感じのするものだった。
夜は渋谷クラシックで、賢作さんのピアノソロを聴きに。このひとの演奏は自由で、楽で、聴いていて心地いい。前半パットメセニーの曲を弾いているとき、流麗さの中にところどころ、いかにも楽しそうに元気に弾くところがあって、この楽しさ元気さがいいなあ、この曲でこの弾き方は面白いな、楽しいなと感じ入っていた。後半は詩人の桑原タッキーがゲストで現われた。会うのはもう何年ぶりだろう。どぶ汁の詩をリーディングして、賢作さんが後を引き継ぎ、その詩を歌詞に歌い弾いた。どぶ汁というのはアンコウ鍋のことで、福島の名物でもあるよう。福島ライブのために書かれた詩であり、歌であり、気持ちがこもっていた。ジャズィーな夜だった。
19日は、翌日帰沖の予定なわりに、かなりあちこち移動した。横浜の実家からまず西荻へ。フラスコの日野さんと待ち合わせて、昼どきだったこともあり、鞍馬で蕎麦を。ここの蕎麦屋は昼から夕方までしかやってなくて、なかなか行けないが、とてもおいしい。おろし蕎麦をいただいた。それから雨と休日を訪れる。一度季刊サルビアに出ていただいたことがあり(辻さんのリレー取材の回)、以来何度か来たことはあったけど、店主のかたと話すのは初めてだった。流れている音楽は静かで、その静かさが印象に残る不思議なお店。そして今度は西荻紙店へ。うちが吉祥寺から引っ越した後に開店したお店で、今回が初訪問。三星さんがいらして、はじめましてのごあいさつを。不思議な立体の紙の箱を見せてもらった。外見は箱、でも中はうにゃんとひねって開ける、複雑できれいなかたちをしていた。海の動物シリーズを歌のおみやげに。さらにストアさんへおじゃましたら、素敵なボーダー服がたくさんだった。ここでも日野さんに店主のご夫妻を紹介していただいた。最後はbeco cafeでお茶して、来年1月の旧暦展の話をした。
昼待ち合わせで、解散したのがもう夕方。吉祥寺へ行く時間が少しあったので、ブックス・ルーエへ。七十二候の本がまだ出始めたばかりのときから、花本さんはじめ、大事にしてくださったから、直接お礼を言いたかった。ちょうど二階のレジにいたので、久しぶりに会えた!よかった。俊太郎さんの新作の本をプッシュしてるんだ、よかったら紹介して、ということなのでここに。『すき好きノート』は読者が自分の好きなものを書き込む式の本ですよー。
夜は、白井のいちばん好きな、七草さんへ。ここでごはんをいただく幸せよ。今夜は一人で。早めに行ったので落ち着いて、リカさんと話せたりもして、贅沢な時間。栗の擂り流しにはじまり、旬の野菜がさまざまに。あけびのフリット、おいしかったなぁ。すどうの器がここぞというときに登場して、器もしあわせものだなぁ。季節のお酒、ひやおろしをいただいたり、しょうがのソーダのお酒をいただいたりしつつ。じんわり、じんわり、おいしさに体がよろこぶ食事をいただきました。
で、帰る筈がこの日のてんこ盛りはこれで終わらず、某知己のHさんと渋谷で少し会うことに。実はHさんは大の旧暦好きで、上京の折に会えるのを楽しみにしていた。久しぶりの話に花が咲き、不思議な話題が飛び交った。熊野の話、学生時代の自主制作8ミリ映画の話、三内丸山遺跡の話……。話題は尽きず、あっという間に終電ぎりぎりで、渋谷駅へ駆け込んだ。
今日は子の運動会だった。
子は開会式に幼稚園の行進の先頭で、旗を持って歩く係になり、親は柄にもない早起きをして、よく見えるように立ち見席のいちばんまえを場所取りした。背をぴんと張って、小さい体にしては大きい旗をよく持っていた。役が済むと、一目散に列へ駆けって戻っていった。
ちょうど夜は首里城祭をしており、守礼の門へ向かう道から首里城への道々すべて、そして龍潭のほとりに至るまで、無数の灯籠が灯っていた。シーサーの舞いや、ハーリーの囃子などの演目が舞台で行なわれてもいた。西のあざな(城の高台)から、那覇の霧にけぶったような夜景がきれいに見えた。
十四夜の月を義妹の子が、おんも(お芋)と指さしており、ああ、芋名月や栗名月といった名前は、旬の時期の月という意味もあるだろうけれど、月自体が里芋や栗のように丸い、と見立てた名かも知れないなと思いもした。
今朝は5時半ころだったろうか、朝帰りした。
昨日の午後に高木敏次さんと真教寺前で待ち合わせて、一緒に飲んだ。
来週、島から引っ越しなさるとのことで、送別会のようなもの。山崎の小瓶やバゲット、チーズなどを持ってきてくださり、波之上ビーチまで歩いて向かう。途中、酒屋に寄り、オリオン中瓶を二本買い、栓抜きがなかったのでその場で開けてもらった。
なんみんの浜辺に腰を下ろし、瓶ビールで乾杯しラッパ飲みする。風が気持ちいい。夕方、ゆっくり傾いていく日は暖かく穏やかで、ビール日和だった。
と思ったら上空をオスプレイが三、四機飛んで行き、初めて見た。不格好に、のそのそ飛んで行く。お荷物なシルエット。
七時まで、日が暮れてみんな帰っていった静かな浜で、山崎を空けた。
高木さんは、おちょこまで二つ持参してくださり、これを、と小橋川卓史作の赤絵のおちょこをいただいた。
二軒目はどこへ行こう、とふらりと歩き始め、波之上から久茂地まで行き、日本蕎麦の店へ。そこで店主おすすめの十割蕎麦をいただく。沖縄で食べる蕎麦もおいしいものだなと思える味だった。
そして三軒目は話の勢いで焼き肉屋へ入ることに。ホルモンやタン、カルビ、ハラミをたいらげ、四軒目はどうしようかと桜坂のほうへ行く。おでん 悦っちゃん。ドアをこんこんとノックすると、店の中から開けてくれる。桜坂劇場の前の通り沿いの店。豚足と大根と厚揚げのおでん。時雨という泡盛を二人で二合。豚足がとろっとろでおいしかった。昔からここにあるおでん屋さんとのこと。はたして五軒目はどうなってしまうのだろう、と思うと、桜坂からひめゆり通りへ出て、また国際通りに戻り、ぐるぐるとあちこちを月夜の明るい夜道を歩き、あれこれと話をした。缶コーヒーとお茶を途中買って、飲みながらまた歩いて話した。やがて、国際通りからひょいと小道に入ってすぐの沖縄そば屋が目に入り、じゃああそこで、とのれんをくぐったが、高木さんがそばを注文しようとするも、こちらはもうお腹いっぱいです、と言うと、合わせてくれ、生ビール、梅きゅう、おしんこで閉店まで飲んでいた。そして出て、さすがに午前様のいい時間になっていたので、国際通りをまたゆるゆると歩いていき、ビルケンシュトックのあるビルの上階にある白木屋の前で、ここにしましょうか、とエレベーターを上っていった。生ビールを一杯だけ頼み、あとはウーロン茶を三杯ずつ。意外と静かで(人がもういなくて)落ち着いて話せた。ここも四時半ころだったろうか、閉店までいて、そしてタクシーでおたがいに帰っていった。前回は午後三時に待ち合わせ、朝の八時まで飲っていたから、今日は比較的早い。タクシーに乗り込む高木さんを見送った。「これでお別れ、ってこともないですから」と言う高木さんの声が耳に残り、タクシーの後ろ窓から手を振る姿もまた、見送りながら目に残り、島に来て初めてお会いして以来、ひと月半かふた月に一度ほど会って、飲んで、話して、夜を明かした飲み会の、今日がさすがにひとつの締めになったんだ、と反対方向のタクシーに乗り込み、首里へ帰って行きながら、しみじみと感じていた。
今朝もまたひとつふたつ、十月の東京のことを書き留めておきたい。
若い詩人さんに丘野こ鳩さんという、とてもとてもいい詩を書く人がいる。詩において声が幾重にもあらわれ、そのひとつひとつに言葉への切実さが縫い付けられ、まるで合唱するようにソプラノやアルト、テノールの詩の声音が詩行に満ち、鳴り響く。いまを生きることの困難とがっぷり四つに組む痛みのさなかにも、命それ自体が持つ、生きる高鳴り(生の肯定)をけっして手放さず、むしろこの人にとってのより高みへと希求する姿がまぶしい詩人。(たとえば現代詩手帖の今年二月号に作品が掲載されている)。
週末の13日にお願いして、丘野さんに文京区の赤門付近を案内してもらった。一葉の史跡、東大の並木。そしておめあての文京ふるさと歴史館で、この地に出土した縄文・弥生土器などを見、その後時代が飛んで近世の町並のミニチュアや習俗文化の資料にふれた。八月の東北旅行の続きのように、日本の歴史的地層にじかに接した感覚があった。翌日、茅ヶ崎で旧暦の本に関してお話をする際に、中国古代の暦を取り入れる以前にも日本にあったという自然暦について少し話せたらと思っていたので、この日こうして、古代日本の生活像を伺うことができたのは貴重な体験になった。
新宿へ移動し、小説を書いている中村くんと合流した。二人は同じ文学部の出身で、話を聞いていると、こうして互いの創作活動を磨き合っているのだ、と新しいものが生まれるいまを過ごす人のさまを間近にできて嬉しく、また懐かしく感じた。昨年も三人で飲んで、三浦哲郎の小説を教わり、堀江敏幸、綿矢りさを(重い腰をあげて)読む気にさせてくれる文学談義を披瀝してもらったけれど、この日もまた未知の時間に接する機会だった。明日があったので名残惜しくも早めにおいとましたが、現代の都市としての東京ではなく、数千年前からここに人が住んできた名のない地としてのこの場所に思い馳せる種子が、じぶんの認識の内に植わった気がする。
もうひとつ。毎年一月の旧暦展でご一緒している、神楽坂の日本茶・茜やさんが、飯田橋に茜夜というあたらしいお店を出したというので、10日(水)に行ってきた。実は上京の前後からかぜ気味だったため、その日は実家付近で、菊名の図書館で調べ物をするぐらいにして大人しくしているつもりだったが、昼に旧暦展会場のギャラリー、フラスコの日野さんへ電話してみると、ごあいさつにぜひ伺わなくてはという方がちょうどフラスコで今日まで展覧会をしていると知って、図書館経由、東横線で東京へとまた出かけることになったんだった。
まずフラスコを訪れると、ちょうどSyuRoの宇南山さんがいらしていて、話せたのがうれしい偶然だった。真鍮の箱の作り手のかたのお話を聞き、改めて手仕事の貴重さを知った。パリにもニューヨークにも飛んで行き、日本の手仕事を世界に届けている人。
会場には、展覧会を主催なさっている大治さん、ガラス作家Studio Prepaのお二人。そうだ、マスミツくんにも会えた! 帰ろうとしている姿をふと見たら、よくすどうから話は聞いていて、一度松本のクラフトフェアでお会いできたマスミツくんだと気づき、あわてて声をかけて、フラスコの前で話すことができた。なぜだろう、一度会っただけなのに温かさを感じるのは、この人の特別な存在感なのかもしれない。
そしてぜひにとごあいさつできたのは、橋本裕さんで、日野さんに紹介していただいた。詩を書いていると、詩集の感想のお手紙を頂いたり、こちらからも送ることがあり、手紙の封を切る機会が多い。そんなとき、ハサミでジョキジョキと封筒を切り開くたび、少しだけ胸が痛んできた。以前は、母の旅行土産でアフリカ製の木のペーパーナイフを使っていたのだけれど、何年も使ううちに歯が欠けてしまっていた。それから長らく、愛用できるものを探していたところ、以前にも橋本さんが大治さんと同じフラスコで開いた展覧会を訪れた折、木の流線型のなめらかな面に、もうひとつ面が当てられた細長いペーパーナイフが目に留まった。これはと手にとると、ペーパーナイフという道具のために、意を凝らしてこれだけのために作られた形であることが分かった。「この人はペーパーナイフが好きな人だ」とはっきりと分かる形だった。そう思い、なおためつすがめつすると、これが出合いなのだと得心し、メープルとカリンのどちらか少し悩んで、メープルを選んだ。以来封を開けるのが楽しみで仕方ないほど、使うよろこびに満ちた道具となっている。その作り手である橋本さんにお目にかかることができ、どんな思いからこの物が生まれたか、その原型となるペーパーナイフも見せていただきながらお話を聞くことができた。(『島ぬ恋』もアンカットであり、頁を切るのにペーパーナイフを用いる。手もとにある橋本さんのペーパーナイフを使って封を切った。紙ももとは植物だから木のナイフと合うのだろうか、封切りの音がやわらかく安心できる)。
最終日だったため、その日の展覧会は早仕舞いなのに長居してしまったが、Studio Prepaの吹きガラスのコップを一つ選び、いただくことにした。沖縄に持ち帰り、使ってみたらその軽やかさ、飲み口のよさ、見た目の涼やかさにあらためて感じ入り、いい買い物ができたと嬉しくなった。
日野さんの案内で、jocogumoさんの新しくなったお店にもおじゃました。ていねいな手仕事の品が並ぶ、素敵な場所。つい話し込んでしまいつつ、ほっとできる佇まいを感じた。
神楽坂は初めて事務所を構えた街で、そのお向かいにあった和の雑貨店、貞のご主人が日野さんで、後にフラスコを立ち上げた。ご縁があるかたがたに会える日で、来た甲斐があった以上の日だった。夕宵の道を飯田橋駅のほうへ下りていき、ホテルエドモンドに通じる細道を行くと右手に茜夜の看板が出ていて、階段を上がった二階にあかねさんの白い空間が待っていた。
今月前半の上京をふり返ると、会いたかった友人たちに会えたことが何よりうれしいこととしていま思い出される。
茅ヶ崎の書店さんでトークイベントをした翌月曜日、横浜で広告学校時代の友だちに会えた。横浜で広告会社を営んでいる福田さん、福田さんを通じて知り合ったゆうちゃん、すみさん。馬車道なんて行ったのは何年ぶりだろう。趣きのある街並みを歩いていき、細路地に入ったところにあるビアバーへ。迷っていたら道でゆうちゃんと合流し、携帯で道を訊いているのに連いていくと店がみつかって、福田さんがカウンターで待っていた。この数年のいきさつをあれこれ話したり、たあいないやりとりをしたりしつつ、店のおいしいオリジナルビールをいただいた。
楽しい時間はあっという間で、気づけば終電間近。出版のお祝いなのだろうと思う、福田さんがごちそうしてくれた。初めて詩集を出したとき、まとめて十冊注文してくれたのを思い出して、ありがたく、また感じる。
遅くなってはいたけれど、実家に帰ればいいだけだったからまだ電車はあり、桜木町まで歩いた。ゆっくり、横浜の街並を感じながら歩き、やがて駅の明かりに近づいていった。
10月9日(火)は、高円寺でサイトヲさんご夫妻や、山元さん、大崎さん、栗原さんと飲んだ。
この日もやっぱり、人の厚いもてなしの気持ちを感じて、うれしくあたたかく場を囲む幸せにあずかった。サイトヲさんは仕事で忙しいさなかに、高円寺のおいしいお店を予約していてくれて、そのうえその日、お店はお休みなのにもかかわらず、融通してくださって、僕らを歓待してくれた。おいしい野菜、おいしい日本酒、味わい深い店の雰囲気(カウンターの奥には、綿花から糸を紡ぐ糸車が飾られていた)。
本が好きな人たちと飲める幸せは何だろう。安心感というものに包まれていた気がする。なんの安心感だろう。言葉に、ここを道と思い定めていくじぶんにとり、気の置けない関係性がそこにある、そういう種類の安心ではないだろうか。愛好の集いというのに留まらない、同じ道、近しい道を、たがいにゆきあう者同士の打ち解けかたかもしれない。
この日もそうだ。店を出て、高円寺まで皆で歩く道、夜空さえあたたかく感じられた。ハレーションを起こしたように、高円寺純情商店街(だっただろうか)の明かりがぽやぽやと照っているなかを皆で歩いて帰れる時間の幸せの中にいた。
午前中、桜坂劇場で「ニッポンの嘘 〜報道写真家 福島菊次郎90歳〜」を観てきた。広島の被爆に苦しむ人の姿、祝島で原発を建てられたら海が汚れて困る漁師たちの原発反対の姿、自衛隊の内側、60年代の学生運動、成田空港の建設地として農地を奪われることに抵抗する農家の人たちの姿、昭和天皇の戦争責任を追及する写真展活動、そして福島の原発事故が起きて土地を汚され、悲しみ憤る人たちの姿。それらを、深く踏み込んで写真に写し、発表する写真家の姿に、問いただされる気持ちで、観てきた。
とくに心に残るのは祝島の漁師、三里塚の農家の人たちの姿。三里塚の闘争の場で、ふるさとの歌がやぐらから流れ、皆が口ずさむと、機動隊の側も力がゆるんだとナレーションが言っていた。そのやぐらがチェーンソーで切り倒されたとも。
ふるさとの歌、戦中に民衆の間で流行ったそうで、郷愁を愛国に橋渡しする軍の意向に沿うものだったのではという指摘を見かける。それが今回の震災に重なるという指摘も。ただ、闘争の側が、土地や海を守ろうとするとき、同じ歌が抵抗の足場にもなり得ると今日の映画で知らされた。
土地を、海を、奪われる側が歌うとき、ふるさとの歌は支えとなり、逆になるとき、同じ歌が戦意昂揚の片棒を担ぐことにもなるとしたら、いま生きている自分が地に、海に、根ざした暮らしを軽んじていないか、大事に感謝しているか、そこが分水嶺になるんじゃないか。歌のせいじゃない、人がどうか、だ。
そして夕食、従妹の誕生日祝いをと、島野菜や沖縄の海で穫れた魚介を食材にしているという韓国料理屋さんへ行った。自然の調味料だけだよ、餃子の皮も私が作っているよ、と店主のオモニが言った。
僕の足が地についているはずがない。土にもふれていない。その僕が島野菜の料理を食べる。せめて、いただきます、ごちそうさまでした、と感謝をだけはすることだと思う。土とはこういうものだよ、海とはこういうものだぞ、と教わることが、その食事をいただくことだろうと思う。
旧暦の本など書いているが、心せねばならないことが、日々膨らんでいく。学ばねば追いつかないが、無知ばかりが広がっていく。それでも、今日の映画と、ごはんに、勇気づけられる。信じられるものは、こっちだぞ、と教わり、そっちを向こうと思いが募る一日となった。
早10月。台風一過の澄んだ星月夜で
十五夜をながめることができました。
また新しい月日がはじまっていくんだなぁと、そんな感じの今月初旬です。
いろいろなことが動いている気配が満ちていて
こんなふうに先行きがわくわくしながら、わからない感覚というのは
今までにないものなようです。
長〜〜い試行錯誤のトンネルからふっと外へ出たような
それでいて今度は真っ白い雲の海の中で、
はてしないどこかへ向かってるんだか運ばれてるんだか
無我夢中で浮かんで飛んでいる感じ。
色々と波瀾万丈、怒濤、キラキラな9月があっという間にもう下旬。
大阪でジャズピアニストの島田篤さんと
リーディングライブをしたり、
MAYA MAXXさんと去年に引き続き、キッズプラザ大阪で
親子ワークショップをしたり、
がっつりイベントに満ちた大阪の旅が上旬にはありました。
そして、貞久秀紀さんと奈良のまちを散策し、詩のお話を伺えたことは
じぶんの至らなさ、詩の理解の浅さをあらためて感じつつ、
お会いできているのが夢のような時間でした。
中旬に沖縄へ戻ると、台風がまた来たり去ったり。
あれやこれやの雑務に追われたり、
なにがあったかすこんと忘れちゃったり、しつつ
気づけばもう、9月の終わり。
『天地明察』を読んだらまた旧暦のことを学ぶ意欲が湧いて(単純)
楽しくなってきました。
がんばらなくっちゃ!
あっという間に9月。早い。
悩みの渦中に(例によって)います。
詩のことをあれこれあれこれ考えてる。
そして出口はまだ見えない暗ぁいトンネルの中。
今週はたくさん詩を書いた。二十数篇。
ひとつのテーマでがーっと。
でも時間をおいて寝かせて
もういちど読んでみたとき全部捨てるかも知れない。
半々くらいでお蔵入りな予感。
じぶんの詩をあらためて信じてみる。
じぶんのことばをもういちど信じ直してみる。
押し潰されそうな気持ちに、勝手になってしまう気分のいま
そこから出てくるのは、自力がいる。
誰と何の関わりがあるわけでもない、
勝手に落ち込んで、勝手に立ち直るのは
そういうもんなんだよな。
このところ(とくにうーんと悩んだり考えたりしたわけではなく)自然に感じるようになってきていることですが、現代詩の世間に、もうじぶんが敢えていようとは思わなくなってきています。
詩は書きたいように書き、それを発表したいように発表することは、これからもやっていきたいと思っています。
ただ、どうもやっぱり、何か違うのだろうな、という感じがしてしまっています。(やっと気づいたか、という声が聞こえるようですが。いまさらですが)住む世界が違うのかな。
『島ぬ恋』を発信するにあたって、死者に名宛てした詩集を死者に読んでもらうわけにいかず、では現実に誰に宛てて?と考えたとき、〈読み手=詩人〉に読まれることが死者への名宛てになるのではないか、と心することができたのは、詩人という存在に依拠してのことです。書き手がいて、読み手がいる、そのありように感謝し、受け止めるものです。そしてそれは、それだけで満ち足り、他に何かを望むというものではありません。
沖縄へ来てみて、一年半近くが経ち、その間好きにやってきましたが、そうこうしてみると、書き手にはただ、まっしろい紙と鉛筆という自由だけがあるのだと、身をもって感じます、それがあたりまえのことなんだと腑に落ちます。あまりにあたりまえのことに、いまさら気づくなんて、バカですね。でもいまさら気づきました。じぶんの住む世界は、いま目の前の、白紙とえんぴつ、なのですね。それ以外にはないのだと、いまさらのように感じています。
ここのところ籠もりっぱなしだったので、
えいっと自転車でお出かけ(土曜日ぶり)。
めちゃくちゃ暑いなかをあちこち走り、
やっぱり焼けました。
国際通り裏の喫茶店に、ふらふら〜になりつつ
立ち寄って、一服して体力回復させたり。
家までの長い長い坂を
最後に一気に登りきったり(ひさびさで体力が…)。
体を動かすと、すっきりします。
☆
今日は、白井がフリーランスになった日でした。
かれこれ11年。よくもったなぁ。。
毎度毎度つなわたりですが、
人に助けられて、いまいることを
あらためて感じ、感謝します。
☆
そして今日は、沖縄の祖母の命日でした。
夜は叔父宅に、親戚が集まり、
まったりと過ごしました。
お仏前にお祈りすることを島では
うーとーとぅ、と言います。
わが家では、のんのんするよ、と言っています。
ご先祖に感謝することを、
この島にいると大事に大事に感じます。
ゆっくり、のんびりすごしてきた気がしていたけれど、
ふり返ってみたら、今年の上半期の半年があっという間だった。
1月に東京の神楽坂で旧暦展をしたのが、
ずいぶん、ずいぶんと昔のことに思える。雪降ってたな。。
2月には旧暦の本ができて、
4月は、新潟へさくまのお墓参りに。
5月に詩集ができあがって、6月はダンスやライブを見たな。。
☆
趣味のこと。といったら、カメラのこと。
このあとも、旅に行くことになりそうで、
ライカを携えていけたらいいな、と思うけれども
持ち歩いてはいても、なかなか撮ることがなかったり。
何かテーマと方法をちゃんと決めなくちゃ、と
いまあれこれ考えていて、やっぱり“人”を撮るのが好きだ。
風景を撮ると、どうしょうもない写真しか撮れず、
でも、会いに行った先で、飲み屋で、道で、
出会った人人を撮れたら、いいなあ。
しばらく、風まかせ、気持ちまかせに
動いてみたい。
ちょっぴり、
ガス抜きしなきゃ。
4号が去り、5号が来るとか。
気圧の低いの高いのまぜこぜな感じが、島に来てから
うわわわん と体の調子に影響を及ぼすようになってきました。
東京にいたころは、ぜんぜん気にならなかったのに。
土門拳の写真展を、県立美術館でみました。
気合いを入れられた感じ、でした。
一枚一枚の写真を、会場をめぐりながら見ていくうちに
心の底に喝を入れられた感じがしました。
炉に火が入った感じというか。
このところ、くよくよとなやんでいた詩作のことにも
だんだんふんぎりがつきそうになってきて。
詩集を出したあとはいつもそうですが、
今回も、落ちてます。次、これから、どうしようどうだろう、って。
夜家で佐内正史の特集雑誌をぱらぱら見たり、
なんとなく、うだうだとしているうちに台風が過ぎていったり、
そんなこんなの流れのなかで、
吹っ切れそうだな、という気がしてきました。
よくよくじぶんを見つめ直して、いろんなあれこれ思い起こして、
いまどこになんでどこからどうやって
じぶんが立っているかを思い出せたら、また行こう。
台風4号が近づいて、昼過ぎからしだいに雨や風がつよくなっています。
昨年は二つの大型台風が上陸して、島は大変でした。
その記憶がまざまざと残っていて、なんだか落ち着きません。
時折、『島ぬ恋』を読者にお送りすることができ、
そのつど、温かな気持ちをもらっています。
詩集のページがほっと開かれ、そこへひかりをあてられている気がします。
読者に手渡せるということ、
まるで投げ壜通信のようでいて、
海を渡って壜は手元へ届いていくんだということ、
手渡したい、手渡せたら、と願うところへ。
すこしすこしは、ここに書いていたけれど
きちんと書いておこうと思います。
『島ぬ恋』は、2年まえに亡くなった友人さくま夫妻への詩集です。
さくまがくも膜下出血で4月になくなり、
9月に西荻の葉月ホールハウスで、
さくまの水彩画を展示した追悼展があった直後の
10月に、ゆかさんが大動脈血栓でなくなりました。
今年の4月はさくまの3回忌で、それにあわせて刊行しました。
だから奥付は、やつの命日にしています。
さくまがなくなって後、書いてきた詩はほぼやつのことでした。
しかも最初の半年は、非常に個人的な思い出やできごとについて
書いたものばかりでした。
それが秋になり、ようやくすこし詩が落ち着きはじめ
「葉と空 道と」ができました。
その詩は、葉月の展覧会に広島から来た友人を
バス停まで送る道のことを書いています。
それから「名を」や「なつかしい砂つぶ」、そして
「こころは身のそとに」ができました。
とくに、「こころは身の…」はこの詩集の芯になる思いとなっています。
この詩と呼応する短文「なぜ心は悲しいか」を、
詩の雑誌「現代詩手帖」2011年5月号に書いたのですが、
その号は震災を扱った特集号でした。
じぶんにとって痛手となっているさくまたちの死と
震災によって引き起こされたたくさんの死が
直接は無関係でありながら、
こころにおいては、重なる部分があるように、
じぶんの書くものに影響を与えてきたように思います。
北野武の、2万人の死者というのは、規模や数字ではなくて、
大切な人を失ったひとりひとりの悲しみが
2万人ぶんあることなんだ、ということばが
地震のあと、心に残りました。
さくま夫妻の死にどう向き合うか、ということが
震災による悲しみにどう向き合うか、ということと
どこでどうつながっていくのかをそのことばで気づかされました。
たった半年のあいだに、大切な友人が
なくなってしまうのに直面しました。
まだ四十歳にもなっていないのに。
いのちとは、そういうものでした。
「島」とは、沖縄であり、島国であり、
どこかどこでもいい、ただの島です。
ここではないどこか思い馳せるところ、という意味でもあります。
活版印刷をお願いした内外文字印刷さんは、
さくまと同じ歳の跡継ぎの息子さんを
さくまと同じ病気で、その数ヶ月後になくされました。
そのころは『歌』の印刷所を探しているなかで、
息子さんと電話で話をし、資料を送っていただきもしました。
息子さんがなくなった後、お父さんが
他の職人さんがたと印刷所を切り盛りなさっていると聞き、
今回詩集を出そうという段になったとき、
内外文字印刷さんにお願いしたいと、それは心に決まっていました。
今回の詩集が活版印刷である、ということには
そうした背景があります。
詩集をつくる過程では、すどうはじめ、
仲間に本づくりの相談に乗ってもらいました。
詩集の編集も、大事な飲み仲間にアドバイスをもらったり。
美篶堂の明子さんには、造本に関するほとんど一切を
ゆだねておまかせしています。
一冊一冊、手づくりしてくださる美篶堂さんのおかげで
さくまとゆかさんに、というこの本は
二人に手渡すことはできないけれども、
一冊一冊に手のけはいを帯びた本として生まれてくることができました。
ページの上部を、天というのですが、
天をカットせずに、アンカットにしてあるのは
西洋の仮綴じ本に装いを借りています。
日本では地にアンカットの部分が来るのが通常ですが
印刷(面付)の仕方を変えて、天になるようにしてもらいました。
一つには、洋製本にするなら洋製本の
ほんらいのありように沿いたかったから、
そしてもう一つには、天にいる連中に、という詩集だからです。
白い表紙に題字だけ、という体裁にしたのは、
さくまがビートルズのホワイトアルバムを好きだったからです。
本文の紙は、越後製紙の淡クリームラフを選びました。
あいつの出身が新潟だから、そっちの紙を、と。
雁垂れの表紙はアラベールのスノーホワイト、
フランス装の表紙はパミスの雪、
見返しは、新鳥の子の雪、と「雪」で揃えました。
扉に使った紙は、OKミューズ ガリバー エクストラです。
さくまと共通の学生時代の先輩に教えてもらった紙で、
ミューズも、ガリバーもいるなんて、
さくまと、ゆかさん、って感じで
いいなと思ってそれにしました。
紙選びには、eaの辻さん、内外の渓山さん、明子さんにも
アドバイスしてもらいました。
今回は私家版で、制作費の半分を
昨年なくなった祖母の遺してくれたお金でまかないました。
こうした思いや考えから、この詩集はできました。
人に支えられてできあがった詩集です。
この場を借りて、感謝いたします。
そしてつくづく、つくづくと
人はいなくなるものだけれども、
おまえらはごくすぐそばにいる、と
ことあるごとに感じているよ。
詩集が明日、届くそう。で、お知らせにご案内を出したものの、
逡巡が、ある。
今回のは、いままでのような、どうぞ、とすんなり
手渡せる感じのものじゃない。
へんてこな抽象的な詩だったり、ただ風景をつらつらつららと書いてたり、
なにこれ?的な
(まぁ、いままでも「なにこれ?」的な感じのことはよく言われて来たけども)
そんな詩集なんだ。もんなあ。
はじめて詩集だしたときみたいな、気分だよ。。
おちつかない、ぐるぐると、考えてるようで
おんなじところをずうっとまわってる感じ。
詩集に抵抗ない人じゃないと、受け付けないかもしれない。
大学時代の友だちが、読んでさっそく
わかんない
だって。そういうふうに言ってもらえるのも◎なのだけど、
そいつは、いっしょにゴダールの映画見に行ったとき、
ねてんのか?ってほど、かたまってた。
ねてなかったけど、かたまってたなぁ。なつかしいな。
暮らしの詩を書いてきて、でもなぜ、今回?
そういうことは、もう詩集ができあがったから
いまは、いいや。
どうしたらいいか、わからない。どうやって手渡したらいいか。
できました、てお知らせは、載せておこうと思います。
でもどうしたって、
ほんとは、売りもんじゃ、ないんだろうな。
手にとってくれたひと、
なんかおまけ特典つけたいぐらいだよ。
今回のはほんとに、吐露だもん。とろ。
そんなん買って読んでくれる人なんて、ありがとうだよ!
子が今日で6歳になる
親の事情や、世の中のごたごたにつきあわされて
あっちこっちへ引っ越しては
ようやくなじんで友だちもできたのもつかのま、
また2年ほどで引っ越し、ということがくり返された。
それでもすくすく、ここまでおおきくなってくれて
いま寝床で、ずいぶんのびた手足を投げ出して
ごろんと寝ている姿をみると、うれしい。
朝起きたら、もう6歳。
来年は小学1年生になるけれど、
どんな1年をこれから歩んでいくだろう。
元気に健やかに育ってくれたら、
もうほかに言うことない。
じぶんの書いたものが、思ってもみなかったところへ、運んでいってくれることがある。予期せぬ場所へ来て、こんなこともあるのかと思うところから、続く未知を進むことにもなる。これまでそうだったように、これからもそうだろうと思う。予期せぬ場所へ来ては、そこから先を進む。そんな、生きる道々。
ふしぎなのは、予期せぬ場所へいま来ていることを、受け止め、受け取り、受け入れていくこと。いつしかそこが、じぶんの立っている場所であることに慣れ、なじみ、そこを所与の足場として、また歩んでいこうと、自然に思っているようになる。予期せぬ場所が、わが身のように。
いまの足もとに、予期したものはないという、ふしぎ。それでいて、書いたものも、書くということも、どうしようもないじぶんの性格も、手にしているとおりのなじみの顔だということが他方にある。これまでと、いまと、多分これからとは、手にしているとおりに結ばれている、と見做せもするのだろうか。
沖縄に帰ってきました。
こちらはさすが南国、南の島、あったかいです。
数日前から、石原吉郎『望郷と海』という
八年に亘るシベリア抑留のことを書いた詩人の
エッセイ集を読んでいます。
この一年の間に起きた、さまざまなことは
放射能事故や地震や津波以上に、
その後の政府や新聞や企業の姿がショックで、
人のいのちがいちばん大事という根っこを忘れて
真逆の方向に進もうとするそれらの姿の背景に
あずかり知れないほどの暗澹たる絶望を見、
そのたびに金子光晴の『絶望の精神史』を思い返していたのですが、
そこに『望郷と海』を照らしてみると、
絶望からの帰還の道すじ、と楽観視はできないにせよ
とにかく帰還する道はあるのだと、
読んでいるこちらが思えるような、
過酷な状況を生き延びた人の持ち帰ったことばに
教わること多々です。
さらにその延長上には、きっと貘さんがいるはずで、
さらにさらにその延長上には、
いま私が立たねばならないはずの
身と心の置きどころがあるのではないかと
そんなようなことをも思いながら。
☆
いま制作中の詩集は、いよいよ印刷が始まったそうです。
活版の職人さんがたが、意を凝らして刷って下さっています。
実家に来ています。
いま、お隣りの庭のほうから鴬の声が。
おぉ 春だ。
春分だなあ。
詩集の原稿、何度か印刷所のかたと
校正をやりとりし、まとまりました。
根気よく、ていねいに対応して下さり、
いよいよ来週から活版印刷開始です。
昨日の午後は、神保町で
美篶堂の明子さんと打ち合わせに。
今回の詩集の造本のことを、
あれこれ相談にいってきました。
きっと素敵に製本してくださいます。ほ。
昨日の朝は、みついけようちえんへ。
今回が最後の取材です。
楽しいお仕事でした。この二年間に感謝。
夜は広尾で、デルフィック以来の友達と
その関係で出会えたかたがたとごはんでした。
広尾は懐かしい学生時代の街。
ほろ苦くもあほあほな思い出があり、
なかなか行きませんが、行ってみると楽しいものです。
20数年前のシェーキーズから、
4500年前のメノウまで
話題は広がり、時が経つのがあっという間でした。
さて、沖縄から島野菜が届きました!
これからピクルスを作ります。
あまり更新せずにいるうちに3月に。。
旧暦に関する本ができました。
『日本の七十二候を楽しむ -旧暦のある暮らし-』
(文・白井明大 絵・有賀一広 東邦出版)
ここんとこ、HPの更新が・・・なのは、
詩集の準備をしてるから。
さいしょの詩集のときからだけども
詩集の制作に入ると、ここの更新が滞る傾向がありまする。
でもようやく、ひと段落つきそう、といいますか
いま印刷所に原稿を預けていて、
校正のやりとりをしています。
で、ここどうしよう・・とか考えてたりするのが
もうすこしで落ち着きそうなところです。
今回は、活版印刷でお願いしています。
製本は、前作『歌』と同様に、
美篶堂さんにお願いを。
一冊一冊、ほんとうに大事に作ってくださるので。
1月の終わりに、あれこれあれこれの
去年からの大きな仕事がほとんど全て一区切りついて、
その途端に、がんばって来てくれたMacBook Airがたちあがらなくなった。
思えば、2008年のサルビア手づくり通信の原稿書きの必要から使い出し、
これまでいくつかの大きな原稿を書く支えになってくれてきた。
にしても昨年の仕事はどれもが大きく、そのぶん負荷が
集中したかもしれない。
テキストはデータ量自体はさほどではない、と思われるかもしれないけれど、
注ぎ込まれる熱量や、それに伴い実際にコンピュータにかけられる負荷は、
けっしてデータ量だけからは割り出せないようにも思う、
あくまで個人的な実感として。
MacBook Airは、ハードディスクがもう寿命といわれ、
データだけを復旧させて、いままだ眠っているところ。
ハードディスクを交換するなり、SSDに換えるなりしたら、
また元気に働いてくれる、いまきっとそんな状態。
でもまだ、お休みが必要な気がしている。
あんなにがんばってくれたんだもの。
川口の匠も、郡山の仕事も、無印良品のコピーも、そして旧暦の本も。
よく考えて、あたらしいマックを買いました。
今回もMacBook Airです。
その11インチ液晶の、小さいほうのやつ。
まだ使いなれず、ここの更新もたどたどしく、ぼちぼちです。
1月の詩や、旧暦展の顛末や、旧暦の書籍が発売されたことなど、
少しずつ、お知らせしていけたらと思います。
また今年がはじまって、
また新しくチャレンジしたいことが出てきて、
帆を張り、旅に出る仕度を少しずつしているところです。
まだ力不足。
やらなければいけない勉強がたくさん。
その旅の、航海日誌を綴る、
しっかりとした、小さくても頼もしいパートナーのように、
いまこの日記、新しいMacで書いています。
あまりにも
いろいろなことがあり
長い長い長い旅から
いまようやく帰ってこられた気分。。
ただいま。
むりしない
好きなことをする
暮らしを大事にする
この三つは今年の目標だなぁ
ハードル高いけど
そういうふうに過ごせたらいいな
こころが動いているけはい
静かでとても耳をすますけれど
動いていることは分かっても、どう何をとは、まだ分からない。
たちもどれないところにへ
いまもう来だしているのは確か。
じぶんに訊ねる
返事をしずかに待っている
かぜが長引いていて、思うようにあれこれがはかどらない。
昨年後半のカンヅメ生活の不摂生がたたっています。
この二年ほどに書いてきた詩を中心に、まとめはじめています。
春には本にしなくっちゃ、な予定。
きょうの昼ま、80年代によく聴いていた曲をYou Tubeで聴きました。
胸をかきたてられるように懐かしく、このいまの感情を
覚えておきたい(昔の感情じゃなくて)と思いました。
PSY・Sという男女ふたりのユニット。解散した後も、ふたりとも活躍しているそう。
こうしていられる時間があとどれくらいあるか
わからないけれど、穏やかな気持ちでいます。
詩にどこまでも添って沿っていきたい。それだけがいいです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
☆
今年の正月は、ふしぎな時間が流れていた気がします。
のんびりとできた気がしながらも
ふり返ってみると毎日あれこれ。
一日は那覇の書店に本を買いに行き、貘さんの詩集を入手しました。
詩を書いたり、夕方から叔父宅で正月の集まりも。
二日は仕事始め。
三日は従弟に誘われて、凧あげへ。
楽しかったのですが、はなかぜをこじらせ夜八度の熱。
四日は午後、とある沖縄の職人さんの工房に取材撮影に。
五日、今日も午前中、工房取材撮影に行ってきました。