仕事場を大そうじ。
ちょっといつもよりおめかしして。
文机、いつもありがとう。
よいお年を!
今年ももう暮れますねぇ。いろいろありました。夏のひっこしが、いちばん大変だったかな。
年越しもバタバタと過ごしそうです。手元にゲラが二つあります。そんなことって、やっぱりとてもとても幸せなことです。だって本が出せるのですから。
一つは、詩集のゲラです。ひとまず先日、編集さんに戻しました。でも年越しをもうしばし、このゲラと過ごしたいなと思っています。じっくり、ゆっくり。
もう一つは、来年の二月にできあがる予定の本のゲラです。旧暦にまつわるエッセイを出す予定です。いま、ゲラとくびっぴきで推敲しているところです。最近は三日に一日ぐらいしか外出してない感じで、こもりっきりで作業しています。最近というか、もうけっこう長いですけども、できるときに、やれるだけやっておこうと思います。
*
今年をふりかえるとか、やりたいのですけども、また今度。万年筆を使いはじめてよかったなとか、子を連れて初めてディズニーランドへ行ったなとか、ひっこして仕事部屋ができてよかったなとか、今年で十年だなとか、いろいろあれこれありますけども、いまは目の前の仕事にまだまだ、行こうと思います。そして来年もまた、できるうちが華なので、やれるだけやろうと思います。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください!!!
あっという間に、十一月も半ばです。なんだか最近、一か月ぐらいぽーんと飛んでしまって記憶を振り返るための心と頭のキャパシティが足りてません。いや覚えているはずなんですが振り返ったらいま頭に入れてあるものがこぼれ落ちそうで振り返る勇気がないんです。ええ。ええと。そうだ。そうでした。日記だ。日々の記。ここ、これです、ここですね。生きてます! 以上。というわけにもいかないので、ちょこっと書いておこう。
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いま、原稿と取っ組み合っています。出るのであれば、できあがったらいつか出る、かと思います。毎日ほとんど机に向かってます。
それと歌こころカレンダーの来年版も今月中には完成させるぞ!の勢いでおります。原稿、アップ。紙、注文中。レイアウト、週明けから。印刷・断裁・綴じ・梱包、ガッツ!
詩集の広告が、今月号の現代詩手帖に出ています。『間口と風』というタイトルで、思潮社から、来年の某月某日に刊行予定です(というか、鋭意製作中です。というか、白井はいま待ちの状態です)。
同じく、今月号の現代詩手帖が、共同詩特集ということで、夏にKOHAKUのコンサートで上演した「恋 吉川真澄に」という、詩人の柏木麻里さんと共同作成した詩が掲載されています。よかったら読んでください。
*
ふう。十月末〜十一月初旬に上京したのですが、11/4に帰ってから完全に執筆モードに入っていて、ほとんど外出してませぬ。こんなにこもっているのは、去年〜今年の春先のあれぶりで、集中して仕事ができている反面、息を適度に抜かないと、気持ちがこもり過ぎてよくないので、できるだけ近所を散歩ぐらいはするように心がけています。
もっともっと書きたいこと、話したいこと、あるのですが、またいずれ! もう年の終わりが見えてきましたね。でもまだちょこっとありますね。残り一か月半、素敵な日々を過ごしましょう〜♪
さ、三か月……。こんなに日々の記を更新しなかったのって、あったっけ、、あれ、、いや、、あれ、、
ひとまず、生きてます。あれからいろいろありました。。
とはいえ、生きてます。ああ、それはもうわかってますね。ふう。うわあ。うわあ。更新してね〜。動揺中。。
ではまた!
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さて、つづきを書こう。上のは今日の未明に書いた悲鳴……。そしていま夜10時すぎ。気を取り直して書いてみよう。
この夏から秋にかけてはバタバタでした。まずひっこし。そして九月は福岡から福島まであちこちを旅して、お話会や展覧会をば。
でも今日は、ほんとうに久しぶりに「家から一歩も出てない」一日でした。これ、つい半年前までは白井のデフォルトだったのに、ほんとにこんなの久しぶりです。これからはこういう日が増えそうです。
というのも、ひとまずひっこしを終え、旅や展覧会の日々も過ぎ、机に向かう日々が戻ってきはじめているから。
今日は午前中、詩集の推敲をし、午後は貞久秀紀さんの現代詩文庫に寄せるファンレターのような文章を書いていました。貞久さんは、白井が現代詩の世界に惹かれた、その門を開いてくれたような詩人です。現代詩文庫が出たら、どうかみなさん、読んでくださいね。素晴らしい詩が、どのページにもどのページにも収められています。(あと素敵な散文も)
先月までの旅のさなかには、たくさんのたくさんの素晴らしい出会いに恵まれました。いずれここに書けるといいのだけど。
ひとまず、今日のことを書いておこう。
万年筆を使いはじめてそろそろ一年くらいじゃないかと思うのだけれど、新しく買ったのは何か月も何年も使って、だんだん自分の書き癖に馴染んでくるんだそう。そう思ってがしがしたくさん書いているけれど、そういうのも長くは続かなくって、やはり原稿用紙に詩の推敲を書く、とか、ノートに考え事をする、とか、そういう日用の使い道の末に、気づくと書きやすくなってた、みたいな時が訪れるんだろうなと思う。でも早く書きやすくなってほしいから、ああでもないこうでもないと書いてしまうけれど、内容がないと書いてて空しい、ていうかいろいろむなしい。。でも早く書きやすくなってほしいから(以下続く)
たまっていた仕事をあれこれ、今月末から来月初めの旅から戻ったら、するんだ。カレンダーも作らなくっちゃ!あとはあれこれ。がんばるぞぅ!
先日、拙詩「(かたばみ)」が『星座』2014 夕月号に掲載されたのですが、そのときに挿画を描いてくださった画家の吉野晃希男さんが、なんと原画をプレゼントしてくださいました!
ちいさな花が咲いたあと、房からさらにちいさな種の粒が飛び散るようすまで。じんわり絵の具の濃淡が紙にしみこみ、まじまじと見てしまいます。
家の近所の坂道に、かたばみがそっと咲く一隅があるのですが、かたばみの葉の緑色って、ちょっと濃いんですよね。その緑の濃さに、なにが詰まっているんだろう?と不思議に思ったり。この挿画はモノクロでいて、そんなかたばみの緑をも、含み込んでいるように感じられます。
素敵な贈り物をどうもありがとうございます。
机がやってきました
先月の日記(6/8)に書きましたが、自分用の仕事机がついにやってきてくれました。
これまでは食卓を、子と分け合うように、こっちでは仕事、隣りでは学校の宿題、となかよく使ってきたのですが、これで仕事は仕事、ごはんはごはん、宿題は宿題、といったテーブル的平和が、わが家にもたらされます。
うれしい……。
こんな仕事机です↓
原稿用紙がしまえる引き出しと、ちょっとした文房具を入れられる引き出しがついている、小さな机です。
monokraftの清水徹さんにお願いして、つくってもらいました。製作は、旭川のガージー・カーム・ワークスさんが手がけてくれました。
素材となる木材をどうしよう、と考えましたが、やっぱり、清水さんにお願いするなら、一緒に旭川の植樹祭へ行った思い出の木、オーク(みずなら)がいいな、と決めました。
そのオークの無垢材ですが、それを用いた天板に不思議な木目が浮かんでいます。↓こんなふうに模様がてかてかっと浮かび上がるんです。
小さなライティングデスクですが、書き物をするには十分なサイズです。
角にはすべて、なめらかな丸みがかけられていて、丁寧にペーパーで仕上げてくれたのではないでしょうか。
またたとえば、引き出しのつくりなど、木に凹凸を彫って組み合わせてあり(蟻組というらしいです)、とても頑丈なつくりになっています。
ガージー・カーム・ワークスの木村くんのブログを覗いてみると、たしかに、凝ったつくりで大変だったことが伝わってきました。
こんな作業風景とか、
こんな思いとか。
清水さんが、北欧へ留学して、それを機に生まれたというスツールが、とても素敵だったんです。
そのスツールみたいな机を、とお願いしたのがはじまりでした。ちょっとだけ、机の脚が裾広がりなのは、モルモルやモルファルの仲間だから(と、かってに思っています)。
これからどんなものを、この机で書けるか、楽しみです。
実家にて
おかげさまで、ぶじに夏至のお話会や季節を知らせる花の出版記念朗読会をしてきました。どうもありがとうございます。
そのとき二か月ぶりに実家に戻ったのですが、なんてことでしょう、縁側に鳩が巣をつくっていました。そして、ちょこんと顔をのぞかせているのは、ひなではありませんか。
つばめの子は見かけたことがありますし、子どものころ、そういえば実家のガレージにつばめが巣をつくっていたことがあったなぁと思い出すのですが、鳩の巣、鳩の子というのは初めてでした。あら、かわいい。
ちょうど父も休みの日で、三人で、へ〜と眺めていました。こんなことって、あるんだねぇ。。
詩のこと
すこし、詩のことを書いてみます。4月の日々の記でふれましたが、いま、詩集のための原稿を準備しています。昨秋、この三年ほどの間に書きためてきた草稿を編集者のKさんに見せて打ち合わせをし、けれどもそこからが本当のスタートのような状態で、いったんその原稿を更地と見なしてあらためて一から、しばらく放置し、ぼんやりとした一冊の姿が見えてきそうな気がしてきたら、そのぼんやりとした姿を手がかりに詩の取捨選択をしました。その後、推敲を重ね、発表する機会があったときにはいくつか発表をし、また推敲し、といったことをくり返してきました(この春までかかりきりだった二冊の本が手を離れてから、まとまった時間ができたので、四月以降の一か月あまり推敲に集中しました)。
草稿から、ある姿をめざした初稿として仕上げ、まとめたのが五月の前半でした。それをふたたびKさんに送り、その後、初稿のうち気になる詩をまた推敲したり、時間を置いて(寝かせて)どうしようか考えたりして、いまに至ります。
思えば、第一詩集『心を縫う』を上梓したのが十年前の六月でした。あれから十年です。試しに、あのときの日々の記から抜粋してみると、
2004.6.25
昨夜、本番の紙に刷りあがったものを、手製の束見本(本っぽいもの)にしていただいて、
それを確認用にうけとった。
そのときまでひきずっていた他の色々での雑念が、ぜんぶふっとんだ。ぜーんぶだ。
もう製本に入っています。
味方もあれば 敵もある 各駅停車の逃避行ぅ♪
と矢野アッコちゃんがうたってましたが、
明日からの一時的不在からもどりましたら、
もしかすると、いえきっと、できあがってくるころだろうとおもいます。
すこし時間を置かないと、冷静になかを読めない、ということを再確認するかのように、
昨日、今日と束見本に見入っておりました。
装丁、きれいだとおもいます。
たのしみにしててくださいねー。
・・・
というのが出てきました。
なつかしいなぁ。
脳内お花畑状態というのは、やっぱり、そんなにわるくないもんです。初めての詩集で、勢いだけがあって、なにもかもが新鮮で、挑戦で、予想がつかなくって、ぶっつけ本番で、そして、それがよくて。既知というのは、どうしても、詩から離れていってしまうものなので。
今回の詩集は、それがいいともわるいとも、言うわけではなくて、見つめているもの、書こうとしているものこと、いまというとき、そうしたさまざまなものごとが違います。
ただ、『心を縫う』『くさまくら』『歌』と書き継いできた(と、書き継ぐ、ということもまた既知すれすれで、ですがそうした道を最初に選んだので)そうした詩の、いまのものを書いています。いまも十年前も、というか、十年前に編んだ詩の方法、そのとき見つけた方法を、いまもって採っています。
第四詩集の『島ぬ恋』だけは別で、あれだけは、異なるところから、詩をひっぱりあげたものです。その冒頭の詩は、何度か書いたけれど、『心を縫う』より前に書いた詩です。冒頭の表題詩「島ぬ恋」は2003年の春に書きました。それ以外の詩は、さくまが死んだあとに書いたものです。あいつが死んで、その別れと向き合うために書いた詩。あれから四年が経ちます。『島ぬ恋』を出してからは、もう、なのか、まだ、なのか、わからなくなってしまいますが、二年です。
今月下旬に上京するときに、Kさんとまた打ち合わせの予定です。いろいろと顔つきあわせて、話し合ってきたいです。
前回も、そして今回も、また前回と違った意味で、詩をどう書いていいのか、詩をどうしたらこれでできた、と言えるものとして書けるのか、どんな言葉なら、どんな詩なら、ということがまったくわからない、詩のことがなにもかもわからない、そんな暗中に居続けています。
ですがそれも当然のことで、そのさなかで書くのなら、そのさなかで書くものです。詩を書くことは、それが軽々とできているように感じるときも、真っ暗ななかに居続けるときも、どちらも珍しいことでなく、そういう後者にいるいまです。
片づけ
この土日は、部屋の片づけをしてました。
下旬に仕事机が来るので、そのためのスペースを確保しようと。
いまは、夜はテーブルランプを灯して、台所のテーブルで書いてます。詩も、書籍の原稿も(子が宿題をするときは隣り同士で)。80cm四方の小さなテーブルですが、もう十年使っています。
台所のテーブルって、いい。なんか落ち着いて。これで十分、と感じる。ただ、仕事もプライベートもいっしょくたになってしまうのが難で、生活にめりはりが、どうしてもなくなってしまいがちです。。それに、仕事のものを広げてると食事のじゃまになってしまうし、仕事がはかどってるときにいったん食事の時間には片付けなきゃいけないのがもどかしいときもあって。
いろいろ考えた末、仕事机を別に置くことにしました。それで、いままでは物置的に使っていた(まぁ、遊ばせていた)部屋を片付けて、ひとつ机が入るようにした、と、いうわけです。
片づけとか、そうじとか、大の苦手なのですが、なぜか今回は、やっとこうか、という気持ちになって、本棚に収めている本の場所替えやら、手紙やこまごましたものの収納やらまで、我ながらめずらしくせっせとやりました。
あ〜、すっきり。
「風紋」という名の万年筆ケース
ご縁あって、鞄や刺繍、布のコラージュなどを手がける作家、cazimiの浜七重さんに、万年筆ケースをお願いすることができました。
それが先月の大阪でのことだったのですが、今日届いたそれは、手にしっとりなじみ、万年筆がストンと(ていねいに採寸してくださったおかげで)ぴったりに収まる素敵なものでした。
一つ注文していたのは、手ぶらで散歩をするときなどに、腰のベルト通しなどに付けたり、小さな鞄にしまうとき、万年筆を縦にしたままぶら下げたりできるような紐を付けてほしい、ということでした。
編まれた革紐の先にフックが付いていて、しっかり留めることができます。こんな細やかな仕上げをしていただいて、感激してしまいました。
万年筆を収めるときは、こんな感じです。
これまでは無造作に鞄に突っ込んでいたのですが、大切にしまって持ち運べる万年筆ケースと出会えてうれしいです。
cazimiの浜さんを紹介してくださったのは、大阪・北浜での貘展を催したアトリエ箱庭の幸田さんです。箱庭さんと同じフロアのお隣りにcazimiさんのアトリエがあり、三月に訪れたときに幸田さんに案内していただきました。
ただ、そのときはcazimiさんに万年筆ケースは展示されていなかったのですが、もういちど四月に訪れたとき、土曜日の朗読会後の打ち上げの席で、浜さんが作った万年筆ケースを使っているかたがいらっしゃり、それを見せていただいたのでした。一目見たとき、ほんとうに素敵で、これまでは万年筆ケースを使おうと思ったことはなかったのですが、「これだ!」と思ってその場でぜひ僕にも一つ、とお願いしてしまいました。
ちなみに、その万年筆ケースの持ち主は、詩の朗読をされているかたで、ご愛用の万年筆も見せてもらったのですが、海の深いブルーに細やかな装飾が施された、素敵な万年筆でした。そしてそれにぴったりの、やわらかく丁寧に縫製されたケースが寄り添っていて、浜さんが使う人のことをどれだけ考えて作っていらっしゃるかが一目瞭然でもありました。
今日届いた万年筆ケースには、「風紋」という名前が付いていました。名前の由来を書いた手紙を添えてくださり、それを読んでまた、ぐっと来てしまいました。心地よい筆跡で綴られた手紙そのものを紹介したいのは山々なのですが、それは控えつつ、メッセージを引用します。
風が吹くことで 水や空気が動き 地表に波紋ができる.その時,砂の存在,空気の存在,風の存在が形となって 静かに残されてゆく.風紋は消えてしまうこともあれば,化石のようにすらなることがあるそうです.
詩人にとって言葉を文字として記すこととは… 静かに思いながら,このケースがそれを風のやさしく吹くように包めたらと思いました.
旅と仕事道具
東京にいたころは、鞄にその日必要な道具を詰めて出かければよかったのですが、島に住むようになってから少し事情が変わってきました。というのも、仕事に出かける=旅に出る、になったからです。仕事道具も旅支度の一部として荷に加わるようになると、ひょいと鞄に入れて都内を電車に乗って移動するだけのころとは勝手が違ってきました。
旅の荷物はできるだけ軽くして、フットワークよく動き回りたいと思うのですが、着替えや日用品がある上に、パソコンも、カメラも、となるとそれだけでかなりの重さになってしまいます。もちろん毎日持ち歩くわけではないにせよ、それでも荷は少ないに越したことはありません。必要最小限に絞ること、それでいて、旅の間になんの不自由もなく気持ちのいい活動ができることを考えると、いろいろな物の優先順位が見えてきました。
どうしても荷から外せないものというのは、じつはありません。紙と鉛筆さえあれば足ります。それなら現地で賄うこともできます。ただ、使い心地が気に入っていて、持ち歩きたいものはあります。これがあると、気持ちよく活動できるもの。いまはそれが万年筆にノート、それからフィルムカメラです。
いま考えているのが、そのノートのこと。かれこれ何年も美篶堂のA5判丸背上製ノート(みすずノートやコトノハノート)を使い続けています。しっかりとした作りで、開きがよく、手にやわらかくなじみ、書き心地がいいノート。これは手放せません。一日の仕事を終え、夜、一人で静かに美篶堂のノートに思いつくままペンを滑らせながら、考えや気持ちを整理します。
このノートを旅にも持ち歩いているのですが、ふと、旅用にもう一種類ノートを使うのもいいかな、と思いはじめました。一冊に絞ると、使い終えてストックしたとき「あれはどこに書いたっけ?」ということがなく、時系列を辿れば見つかるので便利です。でも、多少入り組んだとしても、卓上と携行、ノートを二種類使い分けてみるのも楽しい気がしてきました。あたらしい旅のお伴を迎える楽しみとして。願わくば、開きがよく、しっかりとした作りで、万年筆でもインクの裏写りしないもの。それでいて携行に向くものを、試してみようと思います。
〔付記〕
美篶堂のノートを下ろすときは、かならず最初のページに詩を書くことにしています。即興の詩でも、手慰みの詩でもなんでも。それからおもむろに、あれこれ書き出しています。
バーベキュー
叔父の家に親戚みんなで集まって、庭でバーベキューをする「中央ミートの会」というイベントが、毎年GWにある。一年でいちばん肉を食べる日。缶ビールを片手に、焼き鳥や牛肉や野菜をほおばった。
三日月が出ていて、日暮れがゆっくりながらもしだいに月が傾いていった。暗がりにも負けないで、うたやいとこの子たちが遊んでいた。もう三十代になるいとこたちには、昔のおもかげが濃く、叔父叔母も同様で、懐かしさがこみあげる時間だった。
推敲
昨秋の「音の出どころ」から、詩を原稿用紙に書くようになり、いまもそうしている。まだ決まった原稿用紙はなくて、神楽坂の相馬屋と山田紙店のものをそれぞれ書いてみている。いまのところの印象は、山田紙店の紙質がやわらかく、使っているペンやインクで書きやすく感じている。
パソコンに入っているこれまでの草稿を書き写し、そこから手書きで推敲を行なう。そして夜、ノートにメモを取り、あれこれと考えを言葉にし、詩の像に近づく作業をする。そしてまた原稿に戻り、手を入れる。「できた」と思えるところまでは、まだ行かない。ある収まりがつくところまでやって、時間を置く。しばらく経ってから見返して、そこでどうか、というふうに。いまはそんなふうにしか書けない。書けた、という感触の背後に、本当にこれでいいのだろうかという疑問が影のようにぴったり寄り添っている。
万年筆
閑話休題。一月に新調した万年筆はとても気に入っています。旅先にも必ず持っていき、ちょっと出かけるときにも鞄に忍ばせていくことがあります。使っていて安心感があるというか、手にしっくりと馴染みます。書きたくてこれを使っているのか、これを使いたくて書いているのか、というくらい毎日せっせとこれで文字を書いています。
まだうまく紙にペンポイントが当たらず、かすれるときがあるのですが、少し右にひねって書く癖があるようで、それを修正しつつ、ペン先の方でも慣れてきてくれたらな、という感じです。使って三か月になりますが、書いていくうちにより馴染んでいってくれるのを楽しみにしています。
インクはカートリッジではなく、インク壜から吸入する方式で、これも楽しいです。ウォーターマンのブルーブラックをこの万年筆に、学生時代に使っていたモンブランの細身のペンには同じモンブランのブルーブラックを、イタリアのスティピュラという万年筆にはグリーンのスティピュラのインクを入れています。
一度決めたらインクは変えないほうがペン先にはいい、と聞いたのでひとまずこれで行こうかと。ただ、学生時代からのものは、いま使っているインクが製造中止になってしまったので、壜の残りを使い切ったら何かに変えないと。たぶん、いま黒がないのでモンブランのブラックにしようかと思っています。
ひとやすみ
3月中旬から4月中旬にかけて、大阪へ二回、東京へ一回、長めの旅に出ていて、あんまり島にはいられませんでした。そして4/15火に沖縄へ戻ってきてようやく、この半月ほどゆっくりと過ごしています。
先週の水曜日に最後の原稿修正を済ませて、花の本の仕事も手を離れました。いま、印刷と製本の工程に入っているそうです。
世間的にはゴールデンウィークということになりますが、白井の実感としては、ほんとうに長い長いあなぐま生活の後のひとやすみを、いま迎えています。
最後の山場は先々週末でした。花の本の最終校正を、ちゃんと◯◯日に編集部に届くように、徹夜で赤字をまとめて、そして午前中に郵便局に行って出してきました。物理的に、じぶんの手許から離れていく瞬間が、そのときでした。どっと肩の力が抜け、ふらふらと龍潭のあたりを散歩して、そのままコンビニへ行って週刊マンガ誌を買い、頭をからっぽにして読みふけったような気がします。週末だから、たぶんマガジンか何かだったと思います。最近のマガジンは「はじめの一歩」に加えて「七つの大罪」という面白いマンガが盛り上がっていて、ついつい毎週読んでしまいます(余談)。
推敲
詩の推敲は少し少し、進めています。三年半ぶりに詩の同人誌「repure」にも参加させていただいたのですが、発表した作品は、発表した後も手を入れ続け、そのときとがらっと違うものになっています。でも、詩集に収めるつもりですが、本当に入るのか、また入れたときにどんな詩になっているか、まだまだ分かりません。これはもう、百回以上推敲していますが、ゴールがどこにあるのかは書き続けてみないと分かりません。
子と遊んだり、ごはんの後片付けをしたり、時々は、ごく時々はごはんを作ったりして、気晴らし、気分転換、休養の日々を送っています。
それにしても、詩を書けるというのは、幸せな時間です。つくづくそう思います。たとえどんなに、うまく書けなくても、苦しくても、面白くなくてぐるぐる思い悩んでいても、もしもそういう状態だとしてもやはり、詩を書けるというのは、じぶんの人生にとってかけがえのないことです。
詩集のかたちで発表できるように、と書き進めています。『心を縫う』の時から、もう何度目でしょうか。「いま詩集の準備をしています」という状態です。
組踊
昨日は、国立劇場おきなわへ組踊を観に行ってきました。自転車で、浦添の勢理客(じっちゃく)まで。行きはよいよいで、すごい坂道なのであっという間に着いたのですが、帰りは心臓破りの坂をとてもとても登ることなどできず、おもろまちを迂回して、まだ比較的登れるぐらいの傾斜と長さの坂のほうから帰ってきました。
組踊は「執心鐘入」という定番の演目で、面白く観劇してきました。八六調のセリフも、サンシンや太鼓、笛などのジウテー(地謡)の演奏も、新鮮で楽しめました。
近況
お知らせにも書きましたけども、やっと、新しい本ができました。沖縄はまだですけども(おそらくいま、船で搬送中ではと思います)陸路で配本できる地域の書店さんには、本が並びはじめているのでは、、と思います。 『暮らしのならわし十二か月』どうか、お見かけになりましたら、手に取ってやってくださいませ。
いまは、もう一冊、来月末にできあがる予定の花と詩歌の本の大詰めに差し掛かってます。
この二冊をせっせ、せっせとあなぐま暮らしをしながら、書いてきました。書いてくることができました。とてもとてもありがたい、幸せなこと。書ける、というのはそれだけで、幸せなこと。。つくづくそう感じてます。。
そして昨日あたりから、この三年ほど書きためてきた詩の草稿を、推敲しはじめています。
『島ぬ恋』を上梓してから二年になりますが、それも四月のことでした。いろいろな思いがにじみます。
次の詩集は『歌』のつづき、沖縄へやってきたこと、この島で暮らしていてのことを主に、と。前回にも書きましたが、書きあぐねつつ、書き進めてます。そしてけっきょく、昨日推敲したのは、先月とっくに同人誌用に送った詩を、でもやっぱりまだ、と思って直し、昨夜また、これでようやく、できたかな、というところに来ました。すこし寝かせてからまた見直して、ほんとにできたかどうか、ためつすがめつする予定。
近況
あっという間に、前回の日記からひと月が経っており、その間何をしていたっけと回想しようとすればたくさんのできごとが浮かんできそうだけれど、それはそれとして、最近は沖縄で暮らしてます。
万年筆を入手したあと、2月にテーブルランプを買いました。アンティークの、アングルポイズというやつです。夜中に物を書くとき、手元が明るいと助かるので必要に迫られて。これは、使ってみると、いままでなかったのが不思議なくらい、よくこれでやってたなぁと思うくらい、あるといい。明るい。字がよく見える。たすかる。ほ。
それと、カバーデザインがamazonにアップされましたが、この一年半ほどかけてきた次の本が、来月上旬にやっと、ようやく、、発売予定です。
これは、本当に、長く長くかかりました。
『暮らしのならわし十二か月』という本です。絵は、前回と同じく、あるがくんです。二人して、たぶん、ほんっっっっっとうに、頑張りました。。。取り掛かってみると、七十二候以上の大変な作業でした……。
(発売になりましたら、ここでもあらためてお知らせさせてください。なにとぞよろしくお願い申し上げます。)
詩を、こんなにも書きあぐねている時期はなくって、いまも直しては直しては、暗中模索。。という感じ。
いま、二年かけて推敲してるものを一篇、明日しめきりの詩の同人誌に送るつもりで仕上げようとしてる。けれど、
これが詩になってんのかどうなのか、はなはだあやしく、こころもとなく、やばい……というほど拙劣な気がしつつ、でもいまはこれしか書けない、という選択肢のなさよ。
もうこれ、詩じゃないんじゃね、と本人さえ思うほどで、うぁ……と泣きそうだけれども、そんなことを深夜に書き連ねても何もならない。のはわかっていて、書いてるからしょうもない。
けっきょく、こうなっちゃうのか……と思い、それ、そこに、ああ、おれがいるな、うん、おれの詩だこれ、と見留めるものがあり、どうなんだろか……とツイッターにもつぶやきようがないので、ここでつぶやいている。ここはホームページだから、いいんだ、と思う。こんなとこまでわざわざ見に来てくれるような人、イコール友だちぐらいだろうから、書いてる。まぁ、おれの詩が、こんなんなっちゃうのは、しようがない。そして、こんなんなっちゃう、こんなんしか、こんなん、と言ったって、もう必死に、必死というか、これしか書けない、こうしか書けない、というふうに、やっぱりけっきょくこうなって、書いてる。
明日、しめきり、なので、明日、送る。明日、までにできたものを、明日、送る。
テキトウというわけではなくって、推敲はもう、やるだけやった、と思う。さっきまでかけてやって、で、明日まで寝かせて、明日もういっぺんみて、それから送ろうと思う。
ふぅ。近況。こんな感じ。こんな感じです。
いろいろあるけど、近況、といえる近況って、詩じゃんね。
なんだかこの一週間くらい、宙にぽっかり浮かんでる心境。
たぶん、階段の踊り場的な。週明けからまた、少しずつ、少しずつ、ギア上げていく感じ。では、では。
恵方巻きのこと
この二週間ほど、ちょっとネットから遠ざかっています。必要な調べものとか、友達のつぶやきとか読んでるけど、あんまり書き込んだりとかはせずで。今日と先日、二こつぶやいたな。そんくらい。
こないだ節分だったから、そのこと。
手巻き寿司食べて、豆まきしました。
子がかみさんに教わりながら巻いて、つくってて。上手だったな。あとゆし豆腐いただきました。
そういえば去年のこの日は、大阪で七十二候の展覧会のおはなし会してたなぁ、みんなで豆まきして、やっぱり手巻き寿司たべたなぁ、とか懐かしく(たったほんの一年前のことなのに)思い出したりしつつ。
で、恵方巻き、といわれてる節分のイベントのことを少し。
以前から時々、七十二候の本に恵方巻きを書いたことに、批判を受けることがあって、でもそれは初めからある程度は覚悟していたことだったので、読者のかたのご判断におまかせして、黙って批判として受け止めてきました。
ですがふと、本を書いた身として、こんな考えですよ、ということを、この恵方巻きについてはコメントしておいたほうがいいのかもな、と思うようになりました。
もちろんこれはあくまで執筆における一つの考え方にすぎなくて、こう思って書きました、ということなので、ご判断はやっぱり読者のかたに委ねたいと思っています。
「恵方巻きは、2000年代から、コンビニの商品を売るための販促的に、節分のイベントとしてプッシュされてきたものではないか? どうしてそれが、伝統行事である節分の一つの慣習として紹介されているのか?」という感想をいただくことがあります。
ただの販売戦略と、伝統文化とを混同してはならない、ということへの批判だろうと受けとめています。
(ほかにも「関西限定のイベントのはずなのに、あたかも全国の行事のように書いている」という批判をいただいたこともあります。どこが発祥か、どこまで流布しているか、全国的な行事と地域的な慣習の境をどこで引くか、など)
諸説あるようなのですが、コンビニが持ち出す以前から、一説には大正の頃から、主に関西のほうで春の節分に巻き寿司をいただくならわしがあったらしいです(らしい、というのは諸説ある、という意味として)。白井は、そういう慣習もあっただろうな、と思っています。
そして、そうした諸説ありつつも、少なくとも2000年よりは以前からあった、でもいったん下火になってしまった巻き寿司をいただく慣習を、もういちど復活させて、商売に結びつけようとしたのが、コンビニの販促だと捉えています。
ここからは、拙著の立場です。
販促からはじまった行事のひとつに「夏の土用の丑の日に、うなぎを食べよう」というものがあります(この慣習にも起源に諸説あり、江戸時代にうなぎを売るための売り文句として、土用のうなぎが広まった、というのはひとつの説です)。
恵方巻きと似ているなぁ、と感じていました。
でも、さすがに江戸時代からなので(一説によると)、十分に歴史があります。
そして、節分の巻き寿司も、前述しましたが一説によると、大正の頃にあったといいます。なので、江戸時代よりは新しいですが、そこまで最近でもないと思っています。(付け加えるなら、人の暮らしの営みの慣習は、ある地方で、ある村で、はたまた、ある家々で、こうするものだとされて毎年執り行なわれていた、ということがもし仮にたった一つの事例でも見つかったら、それを見過ごしてはいけないものだ、と思っています。聞き取りの手はじめはそうでしょうし、そのたった一つの背後に、大きな意味がかつてあった、その名残りである可能性もけっして小さくはないからです)
だから、2000年代になって、コンビニの後押しを受けて広まってきた、ある意味ちょっぴりB級な(恵方巻きごめん!)イベントだからって、けっしてそれが2000年代にコンビニで勝手に考え出されたというわけではないのだから、土用の丑のうなぎに比べて、伝統行事ではないとか、これは書くのをやめようとか、そういうふうにはしたくないな、と思いました。
また、恵方巻きの説明で、コンビニ云々、関西限定云々、2000年に復活云々、ということを註釈的に書くかどうかも、限られた文字数のなかで、どんなふうに何を巻いて食べるか、という肝心の中身の説明を削ってまで書くことが重要というふうには判断しませんでした。
伝統行事といいながら、ほとんどの人の暮らしにおいては、春夏秋冬の節分のなかで、いま行なわれているのは、春の節分だけです。土用といっても、春夏秋冬の土用があるなかで、いまも行事が行なわれているのは夏の土用だけです。
時代は変わり、歳時伝承に変遷があり、そうしていまに続いている、そういう変遷の末のいまに立っている、そういうふうに連綿と暮らしが続いている、それを思います。
もちろんだからといって、すべての変遷を受け入れるということではなく、大事なものをこれからも大事にしていきたくて、これからも受け継いでいきたくて、この本を書きました。だからこそ、旧暦のある暮らし、という副題を添えてもいます。
ただ、慣習に正解があるとは思っておらず、そこに正解を導き出したくて書いたわけでもなく、むしろたくさん、さまざまにある、いろんな暮らしのできごとを、いろんな時代のいろんな行事やら何やらを、できるだけいろんな価値観に立って、紹介したいと思って書いた、ということがあります。
節分のところの見開きでは、イラストで親子が登場しています。有賀さんが描いたこのイラストに、感じるところがあります。それは、いまもなお家庭で、春の節分が息づいていて、親子で豆まきをしたり、恵方巻きを食べたりして、立春の前日が、節目の日だということを受け継ぎながら、家族がひとつの行事を楽しみながら行なっている、というありかたへの肯定感です。
なぜ、立春の前日が節目なのか。なぜ、その日に豆をまき、いわしやら柊やらを門にかけ、なんだか最近に至っては、恵方に向かって手巻き寿司を食べる、なんてことを節分と称してするのか。その節分というものの背景にある何かを、言葉にしないまま、親から子へ手渡しながら、人が営みとして行なう。そういうのがいいな、と思っている部分があります。
(節分の歴史的、文化的な背景のことももちろん大事ですし、それを伝えていくことも大事だと思っています。それはいま準備している次の本で書いていることでもあります。七十二候の本はどうしても、季節の暦が中心だったので、慣習やその背景について、より書きたいということが自分の中に残っていました)
もしも恵方巻きが、土用のうなぎのように、毎年「今年の恵方はどっちだっけ?」とかいいながら、手巻き寿司をいただいて、やがてそれが春の節分の行事として定着していくとしたら、それはそれで、いいことなんじゃないかな、と思っています。恵方という一事をとっても、正月の事始めなどで話題に出ることもありますが、恵方巻きでとても注目される話題ですし、「そうか、毎年恵方って変わるんだ。今年の恵方はどっちだろう?」と、恵方というものについて、恵方巻きをきっかけにして、より知られていくんだとしたら、それも素敵なことなんじゃないかな、と思っています。
恵方巻きはたしかにまだ新人の行事ですけれども(大正生まれだとしたら全くの新人というわけでもないですし)、その新人の行事を紹介することも、この本でしたいな、と思ったことの一つでした。
いろんな考えや価値観などがあることだと思います。上記したことは、単なる一個人の考えに過ぎません。どんなふうに白井が思って、恵方巻きについて書いたか、というだけのことです。読んでくださったかた、感謝です。
それでは今回はこのへんで。
新しい万年筆
今年二回目の日々の記。ふぅ。
おかげさまでぶじ神楽坂フラスコさんでの「詩と暮らし展」開催してきました。どうもありがとうございます。
なんだかんだ、あれやこれや、あったのですが、ほんとにバタバタでした。そして島に帰ってぐったり……と体力低下しております。日頃の不摂生や運動不足のせいですかね……。
メールなどすべてのお返事、停滞しております……。あれもやらねば、これもやらねばな……。やらねばな……。
ところで、万年筆を買いました。昨秋から、昔使ってたのを引っ張り出してきて使っていたのですが、中字くらいのものが欲しいなと思って、展覧会を終えた翌日に神保町で。こんなのです。
軸がしっかりと握りごたえのあるもので、細い字も、ちょっと太い字も書けるペン先がいいな、とペリカンというドイツの万年筆メーカーの、M800という黒い見た感じ普通の万年筆にしました。
金ペン堂さんという老舗の万年筆店で、試し書きをさせてもらい、細字のペン先のなかではちょっと太字めのもので、白井は筆圧が相当低いらしいのですが、低筆圧の人向きのペン先というのにしてもらいました。
万年筆はいいですね。手書きでするすると書けて、気持ちがいいです。毎日、美篶堂さんのコトノハノートを開いては、せっせとそのときそのとき思ったことを書きつけています。
手で書くと、考えが先へ先へと、手のほうから出てくることがあります。思ってもいないことを書いちゃって、仕方がないから続けていると、あれ、こんなこと考えてたんだ、というところへ出たりします。くり返しくり返し考えていることは、ページを繰ると日ごとに現われては考えが右往左往し、やがて落ち着いていくのも、わかりやすく、結論が腑に落ちやすくなります。
新しい万年筆はまだ慣れなくて、するするとインクが滑らかに出てきてくれる調子や、手に持ったときにぜんぜん意識しないでしっくりとなじむ持ち心地のよさに、逆にちょっと落ち着かなさを感じているのですが、やがて慣れると思います。数ヶ月数年と使っていくにつれて、書きやすく育っていくのが万年筆のよさですし、大事に毎日使っていきます。
ここは正直に書く。
正月早々とかそういうのはご勘弁を。
大瀧詠一のこと
12月31日に、風呂とトイレの換気扇を掃除しおえて、テーブルの上に置いてある携帯の着信を見てみると、F井からメールが届いていた。
大瀧詠一の訃報だった。
むり
と文面にあった。(うけとめきれない、)むり という意味だ。
メールの向こうのF井が目に浮かぶようだった。そしてこっちでも、心境は同じだった。なんにも言葉が出てこない。しばらくたってから、you tubeで「君は天然色」をかけた。じぶんのCDをかけるだけの根性も力も、まだ湧かなかった。夕方にA long vacationを聴き、iPhoneに入れて近くまで出る道、聴きながら歩いた。家に戻って、次はEach timeをかけた。
大瀧詠一を聴きだしたのは、高校からだった。当時のガールフレンドがアルバム(当時はLPだった)を貸してくれて、彼女以上に、じぶんがはまった。前述の2枚から入った。そのあとで、はっぴいえんども聴いた。だからじぶんのなかでは、はっぴいえんども、いちばんに大瀧詠一がすき。
高校時代には、まわりに大瀧詠一好き、というのは結構いたけれど、友だちと熱く語りあうようなことはなかった。
それが大学に入り、大瀧詠一いいよな、というノリの友人に急に恵まれだした。その一人はもちろんF井だ。でも当時入っていた美術部の仲間で、合宿に行くと、ギターを弾けるやつが遠藤賢治のカレーライスを弾き、皆で歌うなどといったノリがあり、大瀧詠一のことも、すんなりと分かち合えた。
そこに、さくまもいた。
というか、美術部仲間がうちとけていった中心には、さくまがいた。あいつと会えたから、通っている大学も違うのに、何人もの友人ができて、交友関係の深い輪が広がっていったんだった。
さくまの下宿は、当時二子玉川にあって、遊びに行っては、大瀧詠一を聴き、また、あいつが素朴なギターの腕前で、恋するカレンやら君は天然色やら、サビだけ弾くのを聴いてたような気がする。
「よし、白井。夏合宿をしよう。テーマはA long vacationだ」という電話がある晩かかってきて、皆を誘って奥多摩へ一泊二日の夏旅行に出かけたのは、大学二年のことだった。
あの旅行のテーマ曲が、FUN×4だ!おれたちも素敵な恋をするんだ!とバカなことばかり言っていた。そんなバカなことを言えるゆるさや青春の幸せを、そのさなかにいては当たり前のように享受するだけだけれど、いま遠い過去になって、すごく切なさが迫ってくるのは、いまこのときに、大瀧詠一その人が帰らぬ人となったことが感情の波として乗っかってくるからだ。
ふだん青春がどうの、なんて意識したことはない。でも、今回ばっかりは、そういう言葉を使わざるをえない。だって、
いまだから、こう言葉にすることが最も感覚的に合っている気がするから言うけれど、
大瀧詠一が、おれの青春の歌だったんだ。
そんなことを言葉にする必要なんて、いままでなかった。でも、いまは、ある。こう言葉にする必要がある。そうしないと気持ちのおさまりがつかない。悲しくてやってらんない。だって、大瀧詠一がいなくなったんだ。さくまとのつながり、ふいっと、急に消えた。そういう意味も含めて、ショックを感じている。
さくまがいなくなって、四月で丸四年になる。たった、三十八で死んでしまった、友だち。
いまだって、学生時代の友人連中と飲んでいて、あいつもいるよな、いま来てるよな、と思うことがたびたびある。
そして、人生というもの、命というものが、人間の力も願いも及ばぬものであるゆえに、死は抗えず、訪れるとわかっていても、なんでこんなに早く、と思わずにいられない、なんともいえないやりきれなさを抱えては、そんなこと言わなくてもみんなそう思ってるにちがいないことだから黙って、また友人連中でのバカ飲み(最近はバカ飲みでもないけど)を続ける。
そういう、やりきれなさは、ふだんなら、我慢できる。我慢している。死には、人は抗えないと思って、黙って耐える。でも、今回は、別だろう。早過ぎる。大瀧詠一が、どうしてこんなに早く。何もそんな、、と絶句せざるをえない。
だって、この人は、おれの青春の歌の人なんだ。
だって、この人は、おれの大学時代の友情の象徴のような人なんだ。
それをなんで
そんな思いが、押し寄せて、もう大晦日も正月も、土砂降りのずぶ濡れの雨は壊れたピアノに心のキーを叩かれまくってるようなそんな状態だった。
音楽性だとか、日本のポップやロックを切り開いたとか、大瀧詠一が死んでも歌は残っているとか、そういうのは、そういうことじゃなくて、大瀧詠一が死んだというのは、もう、それは、じぶんの心や体の一部が、もぎ取られたということだ。
F井が、出たばっかりのときにくれた、はっぴいえんどBOX。
おれ、もったいなくて、プラケースから出してもいなかった。プラケースに入ってるのをまんま眺めてるだけで、おととしまで保存してた。で、沖縄に引っ越してきて、開けるか、つって開けた。でもまだ、中身を確認しただけで、聴いてもいなければ、読んでもいないまま、ただ開けて、箱を大事にまた扉付きの棚のところに飾ってしまってた。
今回、初めて、それを、聴いた。
特別なときに聴くんだ、なんて、お前それワインじゃないんだからっていうようなおかしな保存のこじらせ方をしてた挙句、初めて聴いた。それが、大瀧詠一の、死がきっかけで。
F井、さんきう。
いま、これ、いましかなかったよ。いま、これのおかげで、ちょっとだけ、支えられた。
全部はむり。支えるとか、何も支えるとかないけど、ちょっとだけ、おれは、すごくすごく、いましかないって感じで、これ、CD出して、挿し込んで、プレイ押して、かかって。で、ゆでめん、聴いて。
ああ、聴いた。と思ったよ。お前がくれたんだ。と思った。このタイミングか、このタイミングかよ、でもこのタイミングだったんか、とか思って聴いた。
まだ、ゆでめん、だけ。あとのは、また、まだ聴いてない。明日聴くかも知れないし、また当分しまっとくかもしれない。
友情の記憶が、こんなふうに、こじ開けられるもんなのか。
ひとつの死が、こんなふうにあらためてぶりかえすもんなんか。
大瀧詠一の訃報が、いくつもの過去の悲しみを引き連れてきて、なんなん、と思ったような、そんなの思う余裕なかったような。なんなん、とか思いながら、飲み込まれてったような。
そんな音楽が、じぶんの心に存在するのか、と知った。知らされた。たまらない。たまらない。こういう種類の感情の、なんというか、入れ子構造のような悲しさ、つうか、悲しさがジェットストリームアタック的に、一こ来たと思ったら、その背中にまた一こ、さらにその後ろにまた一こ、みたいにどかどか重層的に来たつうのは、なんというか、盲点で、思いっきりくらってるけど、さすがに落ち着いてきたから、これを書いている。
とりあえず、F井と飲む約束をした、次上京したとき。その約束だけで、また少し、支えられてる。