11月

2023.11.13月

音楽

夏から秋にかけて3回ワークショップをして、殊にそのラストの回で読んだ、ひとりひとりの参加者の詩に、打たれて、思い出したことは、詩に手をのばした初めての頃の気持ちだ。

このホームページをたちあげたばかりの頃のような
まだ自分が詩を書くようになるとは思いもせず、詩を読むことを純粋に楽しむばかりだった頃に、背表紙に刻まれた書名に惹かれ、見知らぬ詩人の詩集に手をのばしたときのような

いまも胸がうちふるえている。詩に、詩を、心に置く、置こうとする刹那の、ふるえ。

***

どうしようもなく過ぎていく季節は、長い夏の後に、寒波や、夏日・小春日和や、冬の入口にいきなり立たせてくる寒さを運んでくる。

今日目にした、いちばんうつくしいものは、ふたりの少年の成長した姿。3年ぶりに会い、ふたりともその3年分、ひきしまった顔をしていた。

page top↑

8月

2023.8.12土

残暑お見舞い申し上げます

今年はとてもとても夏が暑いですね。おまけに大雨やら台風やら…。皆さまどうぞご無事で。そして被害がたいへんな地域の方々には、国というものができるかぎりの手厚い支援を尽くすのが、本来まともな社会というものではなかろうか…。

***

今年の前半はとにかく怒濤の何かで…。気づいたら、ようやくあれこれの何かをどうにかこうにかあれしてきたら…、そこは8月であった…。というわけで、こうして落ち着いてホムペの日々の記に向き合えるのって、もう去年の年末以来の8か月ぶり…。おおう…。

色々あったんだけど、〈ここがどこなのか どうでもいいことさ どうやって来たのか 忘れられるかな〉(by 細野晴臣)ということで、ぷしゅ〜っと心が湯気を立てておりま

***

もう、なんというか、なんか、ほんと、ほんとにねぇ…(と勝手にひとりでしみじみと…)。コーヒーでも淹れっか。(…一服しつつ…)

***

詩のことを少し。山陰に移り住んで心に宿っていた、抒情的なものが言葉となってあふれ出て仕方ない、という何かのあれが今年の春頃で落ち着いて。貞久秀紀さんとの詩誌『往復書簡』(しまい編集室刊)に書いた詩、それから去年の『ぶーさーしっ』3号の詩、あとはたぶん同4号に寄せる詩で、いったん決着しそうだ。『着雪する小葉となって』は1年目の晩春から初夏にかけて書いたものと、沖繩で書いた抒情詩的なものを併せて、だったから、山陰に移り住んでから2年ほどの心情的なあれがいったん落ち着いたといって、今後もまた出てくることはあるだろうと思うし、これはこれで自分のなかにそういう引き出しがあるんだなとわかることになったものだけれど、いまはまた事物事象と知覚や認識と言葉の関係をつらつらつらと考えつつ、もう1年以上、初稿を書いたままほったらかしに寝かせている、どう書いたものか考えあぐねている詩のことを、どう書いたものか…と思案するともなくしないともなく…。

中也のいった「名辞以前」はやはり重要で、数年前の手帖に寄せた「もう一つの知覚」(貞久秀紀・明示法を解釈するための補助線のような小論)の隅っこで補足的に書いたことを、去年の後半だっけな…辺りからちょこちょこと考えていて、で、定有堂書店さん(この春にお店を閉じられた。素晴らしい書店だった)で、これは、と連れ帰ったドゥルーズの入門書含め初期の本を少しすこし読みはじめてみると色々と考えがふくらむところ(連続性に関してとくに)などあって…。

事物事象を受け取るとき、視覚であれば、目に映り、意識がそこに向き、そのものならそのものと認識しながら、そのものを言い指す言葉を想起して、という流れがあるけれど(8月号の手帖で、貞久さんがこのあたりのことを詳述なさっていて、まだ詩論の前段階からのお話であったけれども、興味深く続きが待たれるところで)そのものならそのものと認識することと、言葉を想起することの並走と、ぐるっと一周まわって互いが一致する感覚というものを、明示法は扱っているように思えるのだけれど、では自分が、いま事物事象に接して感じ、これを詩にできたら…と思っている、手を動かしては止め、考えるともなくいるこのこれは何だろうか…とかとかそんなことをぼんやりぼんやりやっていて、立秋を過ぎ、日の入りが少し早くなり、夕方の赤らんだ山なみが秋の気配だなぁなど感じる今日この頃、皆さまお健やかにお過ごしください。

page top↑