奈落








  心の底から、芯から、
  その冷えは伝ってきて、
  体をこわばらせ、
  心を委縮させる
  そういう経験をさらに進めていき
  ある地点に達すると、
  そこからもう先へは、今自分は行こうとしている訳だけれど
  行ってはいけない
  と防衛本能のような
  だがただの怯えが
  心に働く
  うん、止そう
  そこで昔、引き返したことがある
  これ以下に下りていった時
  僕の中からぜんぶの温度が抜けていき、
  自分は他の誰もいない場処へ、
  行き切ってしまう
  と思ったからだ
  僕は其処から引き返し
  その半年後、それまでの数年間を割いて積み重ねて来たものを
  目の前で
  一時の不注意から
  失いそうになった時点で
  心を発火させ、
  泥の中を這い
  下痢の腹痛を冷静に受け止めながら
  くぐり抜けた
  意志が現実を変える
  意志しか、自分の方に世界を引き寄せる術はないのではないかと
  そんな感慨を以後、今に至るまで本心のところで持ち続けているのは、
  その時の経験があるからであり、それが大きいからであるだろう
  だがあの時発火したのは
  自分自身だった
  あの引き返した場処に置いてきたのは
  僕自身だったのだ
  僕自身から回避した僕はもう一度自分を
  再構成していく道を進む
  なろうと進んでいた僕をやめ、
  これからなりたい僕になるという道程を行く選択をした
  今もその道程にあり、今もその道程のある地点に
  奈落から急ターンした軌跡が残ってい、今もそこの
  急ターン地点には僕の背中と実は背中合わせに背後に
  いる僕自身が、僕自身こそが僕なのだと僕を
  規定して立ち、待ち、こっちを見続けている。
  だから僕はあの時から、一方で道を歩き続け、他方で
  あの地点に立ち、自分が行こうとしていた、そして行く
  可能性を持ったあの奈落の縁にある。
  そして今や、奈落の縁からはるか遠くまで
  来ている一方の僕のせいで、縁に立ち続ける場処から
  足を一歩たりと動かすことができず、
  逆にどんなはるかまで歩いて行こうとも、他方の僕が
  立ち続けている限り僕はその時のその場処から一歩も
  移動できておらず、一片も変身できていないことにさせられざるを得ないのだ
  一つの答えは、今のまま分かち裂き続けながら歩き続ける、
  もしくは止まること
  二つめの答えは、元の地点へ、此処から立ち戻る
  方向へ進む向きを変えて、行くこと
  三つめはあるかも知れない、が分からない。
  そして今、僕は、あの時の冷えと同じものが、自分の
  底から、芯から伝い上がってきているのを感じるのだ。
  この冷えに、もう一度今、さらされようとしているのは幸運なことかも知れない。
  また同じ辛い深刻さを、味わうまでには、まだもう少しか、
  もっと先か、行かねばならないだろう。
  その到達した先で待っているのがあの奈落の縁か、と
  思えば、足が硬く縛られ、足どりがパタと鈍る。
  そうしかならない。今が、今も、今だってそうなっている。
  にもかかわらず、行かねばならない。そうだろうが
  何だろうが、自分が今、あの奈落の底へ下りていっても、
  どんなに冷えが自分に浸み渡り、包み覆おうと、僕は
  自分を発火させた、あのマッチなのか点火装置なのか
  イマジネーションの根拠なく確かめようなく
  でもできる筈だと考えている力なのか、を心の中にまだ、
  きっと心の中どこかに今もある筈と言いたいのだ。
  本当に冷えが自分を覆ってもその発火を心にできたら
  大丈夫な筈だ、だから、と僕は今は思っている。
  じっと心を抱えながら思っている。
  下りて行こう。
  下りて確かめに行かねばならない。と。
  その冷えを呼び込む、その奈落こそ、僕が
  知らず知らず歩んで寄っていく僕自身の場処
  なのだろうからだ。
  そしてその冷えを纏って進んで行く、下りて行く先は、
  (そうではないか、多分、だがそうでなかったら怖いと
  僕は感じている)
  僕が幸せに、本当の自分に、
  なれる、
  僕がなりたい者に、
  心の奥底でなりたいと自然常にいつも
  無意識に願ってそう行動してしまっている
  求める誰かに
  なっていく
  そういう場処だろうと思うのだ。
  冷えはこわい。だがそれが、僕がなりたい僕からいかに遠いかの証の冷えだという事を
  冷静にとらえられれば、
  今僕が無駄に甘えている、持っているべきでは
  ない甘い自分がその冷えを怖れているのではないかと
  いう仮説に立つことができれば、
  冷えはもはや恐れなくて良い、のだ。
  冷えをやり過ごして行かねば、
  そうできれば奈落に今は見える、
  自分が本心で求める場処へ行けるのだとしたら
  冷えをやり過ごしてでも行かねばなるまい。
  恐れなくて良い、でも冷えにまともにぶつかって
  勝ち目は自分にあると思えないから
  冷えをどうこうやり過ごして、
  そうだ、引き返すのではなく、
  さらに先へ向かうのだ。
  心を、あったたかくする何がしかの心得を持って、
  冷えを呼び入れる、
  あの奈落を、
  今度は僕は突き進め。